* よもつひらさか:6 * 猪里を家に呼んだあの日から、毎日のように猪里の夢を見るようになった。 その大半がセックスしてる夢で、夢精していることもあった。 ガキくせぇ、と思う。 でも、ひとつわかった。 俺は絶対、今までに猪里を抱いたことがある。 でなかったらあんなにリアルな猪里の感覚を目が覚めても覚えてる筈がない、という、妙な自信があった。 あの写真もメールも、只の冗談ではなかったのだ。 「別れよっか、タケ」 「え?」 何のことだかわからないといった様子で、猪里は首を傾げた。 今まで自分達は、自分の部屋でのんびりしながらそれぞれ雑誌のページを繰って雑談したりふざけ合ったりしていた筈だ。 この「別れる」は、あの「別れる」なのか。 恋人達が、サヨウナラしてしまう、あの。 「……クロちゃん?」 「聞いとらへんかったん?」 「いや、別れよう、て…」 「なんやちゃんと聞いとるやん」 黒豹はそう云って笑ったが、猪里はどう反応していいのかわからなかった。 「…」 「やっぱあかんかってんて」 口元はまだ笑んでいるが、黒豹は態度を変え、真剣な顔付きで猪里を見据えた。 「…俺のこと嫌い?」 「大好きよ」 猪里の質問に、黒豹はあっさりそう答える。 「…近くでじっと見てみたら実はクロちゃんの好みの対極に位置しとー顔やったとか」 「それも大丈夫。めっさ好みよ」 「…性格か」 「タケのことは大好きやって云ってるやん」 茶化そうとする猪里を制して黒豹は続けた。 「タケは好き。でもタケはどうあっても虎鉄が好きやねんろ」 「クロちゃ…」 「最後まで聞いとって」 黒豹に講義の声を遮られ、猪里は大人しく黙った。 「タケが幸せになってくれたらわいはそれで嬉しいから、わいは虎鉄とお前の仲を見守ろうと思うねん。虎鉄は今あぁやけど、それでもタケはあいつとおったほうが幸せそうにしとるもん」 「……」 「辛いことも多いやろうけど今に慣れるさ。人って案外しぶとく出来てんねんで。それに、虎鉄はまたお前を好きになるかもしれん。それはお前の頑張り次第でどうにでもなるやろ」 云って黒豹は猪里の顔を覗き込んでみたが、猪里は只黒豹の顔をじっと見つめるだけだった。 「一度好き合った仲やないか。お前らやったら出来んこともない筈。……わいんことは気にせんでええさ」 黒豹が笑ってみせると、猪里は泣きそうな顔をした。 「泣かんとってよ?」 「泣かん」 けらけらと黒豹が笑うと、猪里は機嫌が悪そうにぼそりと返事した。 「…でも、クロちゃんは」 「誰かを犠牲にしてまで自分達は幸せになりたかったんやと思い。それで幸せんなれんかったらわいは虎鉄を殴りに行ったる」 「クロちゃん、たった今さっき自分で云いよったことといきなり矛盾しとー…」 「本音が出ただけや、気にすんな」 (これって気にしんといかんところやんね…?) 猪里にはかなり引っ掛かるものがあったのだが、黒豹はそれには気付かないふりをして続けた。 「とにかくや。お前の幸せの為にわいはお前を振ったる」 「……」 「後生やけ。そんぐらいさしたって。せめてものわいからの仕返しや」 最後は殆ど呟くよう黒豹が云うと、猪里は俯いた。 「…ごめん」 「自分ふられといて謝るって訳わからんで。謝るくらいなら引き止めてぇさ」 「ごめん…」 冗談でもそれは出来ない、と猪里が笑うと、黒豹も笑った。 そして猪里の頭をよしよしと撫でて、 「…わいはお前んこと大好きやから」 「ありがとう」 猪里はゆっくりと立ち上がる黒豹を見上げて、にっこりと微笑んだ。 「ん、よし可愛い。その顔で虎鉄を迎え」 「へ?」 「俺帰るけど引き止めんといてな」 「ちょ…ッ」 「あかんで。引きとめんといてやって云ったばっかやろっ」 まるで逃げ台詞のように黒豹はそう云い捨てると、さっさと帰ってしまった。 「ばり最悪ぞ…。まーた逃げられた」 云った途端、携帯が鳴り響いた。 「…も、もしもし!?」 液晶に黒豹の名前が映し出されたので慌てて出てみれば、先程にも増して飄々とした様子の黒豹の声が聞こえてきた。 『おう出んの早いなー』 「阿保!どういうことか説明せんね」 『…虎鉄もな、いろいろわいに相談してきはってんで』 「え?」 猪里の言葉を聞いてはいるもののあっさり流し、ぼそりと告げた。 『あいつが只の阿保みたく笑ってるだけの奴じゃないことぐらい知っとるやろ。いろいろ思うこともありよってん』 「それで、一体どげんこと…」 『忘れたなぁ』 とぼけた様子で黒豹が云うと、焦れた猪里も食ってかかるかのようにそのことを聞いた。 「何がしたかとね?何が云いたかかね。もーよう理解出来ん…」 『お前らに幸せになってほしいだけや。虎鉄に記憶があろうとなかろうとどうでもええ。つべこべ云わずに幸せになりくされ』 一気にまくし立てるように黒豹は云ってしまうと、一方的に切ってしまった。 「…横暴や」 猪里は独りごちた。 「黒豹」 「おー虎鉄やん。こんなとこ来るなんて珍しいなぁ。何か用?」 「あーうN。まぁ」 「ほー」 放課後、この日は根津が皆と練習するので校舎裏での秘密特訓もお休みということで、黒豹は一人で静かに煙草をふかしていたところへと虎鉄がやって来た。 虎鉄に、この場に自分がいつもいることを話したことがあっただろうかとのんびり考えながら黒豹は虎鉄を出迎えた。 虎鉄の表情が少し暗かったことはあまり気にしないようにして。 「隣いいKa?」 「どーぞ。何のおもてなしも出来ませんが」 「お構いなKu」 云って、二人で少し笑った。 虎鉄が黒豹の隣に座るのを見届けてから、黒豹は口を開く。 「二人きりで話すのは初めてやんな」 「…あぁ」 記憶を無くしてから、というのはあえて云わず、黒豹は笑んだ。 そして、くわえていた煙草を地面に押し付けて消した。 「…猪里のことで聞きたいことがあるんだGa」 「わいでよければ何なりと」 真剣な表情の虎鉄に、真剣味の薄い黒豹が答える。 「…まず、これは間違ってたら悪いんだが…お前ら本当に付き合ってたのKa?」 「……」 黒豹は一瞬ぽかんとして虎鉄を見つめた。 「別に、男同士だから疑ってるとかいう訳じゃNeぇ。ただ、何つーKa…」 「よーわかりよんな」 口ごもった虎鉄に、黒豹はあっさり云ってのけた。 「さすが恋愛のエキスパートってか?」 「じゃあ…」 「そーよ」 にっこりと笑ってみせてから、黒豹は続けた。 「これは虎鉄の反応を見る為だけの嘘やってん。…最初はな」 「最初Ha?」 「…いろいろあって、まぁもめはせんかったけどちょっともつれた。でも目的は逸れとらん。とわいは思っとる」 「……」 虎鉄が返事をしないのは疑っているからだと思い、黒豹はまだ続けた。 「ほんまやで?信じてな。わいは信じんでもいーけど、タケだけは信じたげて」 「…おー」 口調は穏やかだが、そこから何だか必死さが汲み取れた気がして、虎鉄は重々しく頷いた。 そして、自分の推理がまず一つ当たったことについて少し考えることにした。 猪里と黒豹は付き合っていなかった。 そして、付き合っていたという嘘は自分の様子を見る為のもので。 よし、まだ想像していた範囲内で話は進んでいるな、と虎鉄は二の句を告げた。 「…俺、多分猪里が好きだっTa」 「…ふーん」 無関心とも、返事に困っているともとれるような相槌を打って、黒豹は目を伏せた。 「…それだけDa。ありがとうNa」 「へ?」 あっさりと立ち上がる虎鉄を見上げて、黒豹は間抜けな声を上げた。 「もういいの?」 「おー。なんとなくわかりゃそれでいい。あとは猪里と話Su」 「……」 猪里とは正反対だな、と思いながらも、だからこそ虎鉄なのだと思ってしまったことに、黒豹は吹き出した。 「な、何だYo」 何に対して笑われているのかわからない虎鉄は頬を僅かに赤くし、講義の声を上げる。 「…早う行ったり」 「ん」 ほっとしたような様子で笑む黒豹に笑顔で返して、虎鉄は身を翻した。 その背中を見送って、黒豹は新しい煙草に火を付ける。 「…もっと沢山あるんやと思ってたから身構えてたのに。何やってんなあいつ」 虎鉄の姿が見えなくなった頃に、黒豹は呟いた。 結局黒豹と別れた後、虎鉄は猪里にいろいろと質問をするタイミング、もとい二人きりになるチャンスを見つけることが出来ずに部活を終え、更には学校で猪里と別れを告げて一人で帰路についてしまった。 本当は家に押し掛けたかったのだが、猪里いわく今日は何やら用事があるらしい。 「ちぇー。せっかく謎解き出来そうなとこまで来てんのNi」 云って小石を蹴ってみるが、少し虚しくなっただけだった。 最近になってやっと虎鉄は身の回りの人間の名を完璧に覚え、誰が仲の良かった人間で、誰がそうでないのかも区別できるようになってきた。 これも猪里の力添えがあったからこそである。 それから、バンダナの存在も忘れなくなった。 これに関しては、猪里は途中から放棄していたので虎鉄自身の力である。 これらに関して周りは喜んだが、猪里はあまり良い顔はしていなかった。 所詮これは新たに覚え直しただけであって、思い出した訳ではないからだ。 普段笑ってはいるが、それにぎこちなさが混じっているのに気付いている虎鉄も、自分がもどかしくて仕方がなかった。 「くそ…一日も早く思い出してぇのNi…」 猪里の為にも、と考えたところで、ズボンのポケットで携帯電話が震え出した。 「ん?」 のそのそとそれを取り出してディスプレイを見てみれば、よく見知った名前が表示されていた。 「…黒豹?」 『今すぐタケんちおいで』 「Ha?」 『いいから!あんま何も考えんと今すぐおいで』 おいで、と云っているからには黒豹もそこにいるのだろう。 そう思いながら虎鉄は質問をしようとした。 「一体何…」 『来たらわかる!早う来ぃや』 それだけ云うと、黒豹は一方的に電話を切ってしまった。 「…横暴ぽくNe?」 そう呟いて、虎鉄は携帯をたたんでポケットへとしまった。 「ま、いーか…ある意味チャンスだRo」 虎鉄は口の端をつりあげ、まだうろ覚えの猪里の家までの道筋を思い出しながらまた歩き出した。 「つーか…迷っTa?」 電話から数十分後、何となくこっちの道であってる気がする、と適当に歩き回っていた結果、虎鉄は見事に迷ってしまった。 「…こっちKa?」 見覚えがあるといえばあるしないといえば全くないような気のする道を右折して、虎鉄は立ち止まった。 考えてみれば、まだ虎鉄は猪里宅へは数える程しか訪れたことがないし、しかもいつも玄関先で追い返されていたから家の中を全く知らなかった。 それが猪里宅へ辿り着けるか否かというのには何の因果関係もないとは思うのだが。 「畜生。電話して聞いてみっかNa…」 そう云って虎鉄がポケットから携帯電話を取り出したとき、すぐそこのアパートの戸が開いた音がした。 ふと顔を上げてみると、猪里がそこから顔を出して。 「まじKa…!?」 迷いながらも、一応辿り着けたことが嬉しくて、虎鉄は思わずにっこりと微笑んだ。 そんな虎鉄に気付いたらしい猪里が階段を駆け降りて虎鉄の元へと小走りでやって来た。 急いでつっかけてきたらしいサンダルに目を落として、虎鉄はまた笑む。 「…なんね、にやにやしくさって気色悪かよ」 不審そうに虎鉄の顔を覗き込んで、猪里は笑った。 「なんでもNeー」 尚もにやにやしながら云うと、猪里は何だこいつはといった様子でいたがすぐに家の方向へと向き直った。 「遅かったな」 「そうKa?」 「遅かった」 猪里がそう云ったところで会話は途切れてしまった。 無言のまま二人は猪里の部屋への短い道程をのんびり歩き、一度部屋の前で立ち止まった。 「ここ入んの初めてやんね」 「…おう」 改めてそう云われると緊張するな、なんて思いながら虎鉄は、猪里に続いて部屋に入った。 「…お邪魔しまーSu」 「…そこらへん適当に座り」 「へーい」 6畳程の、真ん中に小さな机のある部屋に通されてから、猪里がそこらへん、と云った辺りに虎鉄は適当に腰掛けた。 周りを見渡して、猪里らしい部屋だ、と思った。 何がどうと具体的にはそんな気がした。 しばらくして、猪里が炭酸飲料とそうでない普通のジュースのペットボトルと二つのコップを持ってやって来た。 猪里が黙ってテーブルにそれらを置くのを見ながら、虎鉄はなんとなしに云った。 「この部屋さ、猪里っぽい感じがしてなんかいいNa」 云った途端、猪里は手を滑らせたのかペットボトルを落とした。 「わっ」 「何やってんだYo」 虎鉄のほうへ転がって来たそれを拾い上げて机に置いてやると、猪里はぎこちなく笑っていた。 「手、滑ったっちゃ」 「ふーん…」 明らかに不審な猪里の態度を横目で見ながら、虎鉄は今更ながら思い出したことがあった。 「そういや…黒豹Ha?」 「え?」 「俺、黒豹Ni…」 呼ばれたから来たんだけど、という言葉は飲み込んだ。 図られた、と思った。 何の為かはなんとなくわかってはいるが、なんて下世話な奴だと思う。 「クロちゃんはさっきまでおったばってん…虎鉄が来るから、とか何とか云ってさっさと帰りよったよ」 やっぱりかと思うが猪里になんて云えば良いのかわからなかった。 「そういえば、何か用でもあるんかい?虎鉄」 「あー…と、うん。まぁ、そうDa」 変な返事をしたな、と思いながらも虎鉄は続けることにした。 「俺と、猪里が付き合ってたっつー話、いろいろきこうと思っTe」 「!」 虎鉄の一言で、猪里は目を見開いた。 「…それは、」 「悪いが思い出した訳じゃNeぇ。周りの環境とか、写真にメールにあと黒豹の証言でわかっただけDa」 「ふーん…」 猪里が落胆している様子がありありと伝わってきて、虎鉄は心苦しくなってきた。 だが続ける。 「恋愛感情…ていうんかNa。そーゆーのはまだ全然沸いてこNeぇ。でも、猪里とそうだったってわかっても、全然嫌な気はしねぇNa」 「…」 「猪里がそうしたいって思うなら、俺はこれから恋人の虎鉄大河としてお前に接すRu。そうすることで思い出すこともあるかもしんねぇし、何よRi…」 虎鉄は一度言葉を切って俯いている猪里の顔を覗き込んだ。 「聞いてるKa?」 猪里の肩がびくりと震えた。 「わざとか?」 「な、何Ga…」 「記憶喪失なんか嘘やろう!?俺の反応見て楽しんどーだけやなかと?」 「今更何云ってんだよ、猪里…」 「…………」 急に猪里は茫然自失となり、また俯いた。 「猪里…」 「…あんなー、虎鉄?」 どう言葉を掛けていいのかわからず虎鉄が困惑しているのをよそに、猪里はぽつりと話始めた。 「病院で、俺と最初に喋ったときんことば覚えとー?」 「え…?」 「お前が俺の方言聞いて、明太子がどーとか下らん話とかして…」 「あ、あぁ…」 そのことか、と虎鉄が頷くのも見ずに猪里は続ける。 「あれ、初めて会ったときにも云うたんよ?お前」 「それっTe…」 「入部して暫くやったか。一年生のとき。初めて喋ったとき…」 「……」 虎鉄は思わず口をつぐんだ。 何も言葉が浮かんでこなくて、猪里に掛ける言葉も見当たらない。 「俺の部屋に初めて来たときもお前、何かはっきりは云えんばってん、俺らしか部屋やーて云いよっとばい。さっきのお前そのまんまやっか…」 先程の猪里の動揺はこの為か、と虎鉄は妙に客観的に話を聞いていた。 「ちゃんと聞いとーか?て顔ば覗き込みよるんもようやった。ひとつひとつ何とは云えんが今までたくさん、前に聞いた台詞やら癖やら再現しとうごたるにお前はそれば繰り返しよる。これで何も覚えとらん筈は…」 猪里はぱっと顔を上げて虎鉄を睨むように一瞬見たが、すぐに視線を反らした。 「………えー、と…ごめんなさい…」 「…?」 態度の一変した猪里に首を傾げていると、不意にペットボトルを差し出された。 「これじゃー話が進みよらんけん大人しーしとこうと思いよるに…」 なかなかペットボトルを受け取らない虎鉄に猪里は苦笑いをして、コップを手繰り寄せた。 そしてそのコップに炭酸飲料を注ぎ、虎鉄の近くに置いた。 その脇にペットボトルも一緒に置く。 「こげんこと云われても虎鉄は辛かだけやもんね。わかっとーつもりやったばってん、何か違ったらしか。ごめんな」 「え、いYa…」 一度落ち着こうと、虎鉄はコップへと手を伸ばした。 「…俺、虎鉄に記憶があろうとなかろうと受け入れられるよう頑張ることにしたけん。この先、あげん文句は…云うかもしれんばってん本心やと思わんでよか」 「…」 虎鉄には猪里の思いやりが痛いほど伝わってきていたが、同時に猪里の心痛も伝わってきたような気がしていた。 「…ありがとう、猪里。でも俺やっぱり、記憶を取り戻したい」 「うん…」 「猪里を好きだって気持ち、思い出したいSi」 「……」 男に対してこんなことを自然に云ってのけている自分が不思議に思えたが、やはり猪里だからだろうか、と思うと虎鉄は妙に納得してしまった。 「それで根詰めて倒れたりとかしたら元も子もなかけんね。程々に頑張ろう」 そんな虎鉄に猪里は曖昧に笑いかけた。 NEXT |