* よもつひらさか:5 * 「おや、虎鉄くん」 「こんちHa」 まるで神隠しにでもあったかの如く、6時間目が終わった瞬間に消えてしまった猪里を大して探そうともせずに、この日虎鉄は真っ直ぐ部室へと向かった。 正直不安がないとは云い切れないが、あとは周りの人間も部活へ行くか帰るだけである。 まずすれ違いざまに別れの挨拶を軽く交わすことしかしないだろうし、万一つかまりそうになっても部活を理由に簡単に逃げられるだろう。 むしろいつまでも教室に居座っているほうが辛いにきまっている、と虎鉄は早々にここまで辿り着いたのだった。 猪里から、野球部の人間で酷いことをする人間はいないから平気だ、と何度も聞かされていたから幾分心強いものもある。 「今日は猪里くんは一緒じゃないんだね」 「…はい。6時間目終わった途端にどっか行っちゃっTe」 牛尾はそう、と返事するとロッカーを閉め、部室の端に置いてあったパイプ椅子を持って来て座った。 「…」 「…何ですKa?」 虎鉄がユニフォームに着替えているのを、既に着替えも準備も終え暇そうにぼんやりと牛尾が眺めていると、虎鉄が振り返って云った。 虎鉄はズボンをはき替え、次は上半身を着替えようとカッターシャツを脱いだところだ。 「不安かい?」 にっこりと微笑んで、牛尾は表情にそぐわないことを云った。 「何、No…」 「猪里くんが今いなくて」 記憶がないことについて、という意味で解釈してもらっても良かったけれど、と牛尾は付け足した。 「……」 「答えたくないならそれでもいいよ」 虎鉄は視線をロッカーに戻すと、アンダーシャツをとった。 そしてそれをのんびりとした動作で着る。 「………どっちも、不安でSu」 ぽつりと呟いて、虎鉄はずれてしまったバンダナを頭から外して、結び目もそのままにベンチに置いた。 「…でも、野球部は大丈夫だって猪里は云ってTa。だから多分平気でSu」 「…」 「でも、記憶Ha。俺のせいで猪里が泣くんでSu。無理してるみたいに見えるんでSu。黒豹とのんびりする時間もほしいんだろうNi…」 「…黒豹くんと?」 虎鉄が云うと、牛尾は首を傾げた。 「えっTo…」 虎鉄は一瞬逡巡したが、決心したようにまた口を開いた。 この人なら大丈夫そうだ、と信じさせるものがある。 「猪里と黒豹…、付き合ってるらしいんでSu」 「え…!?」 牛尾がひどく驚いて、椅子の背もたれから体を起こすと、パイプ椅子がぎしりと鳴いた。 「でも、…」 「二人ともちゃんと好き同士らしいでSu。お互い、男だけDo。俺なんかのせいで邪魔しちゃ悪いっすよNe…。二人とも、あんなに良い奴らなのNi」 牛尾が驚いているのは、猪里も黒豹も男同士だからだ、と勘違いして虎鉄は続けた。 「……」 牛尾は、何かの間違いだと思った。 猪里が、虎鉄以外の人間を本気で想っている筈がない。 そう思うのだが、牛尾にはそれをどうやって伝えれば良いのかわからなかった。 「虎鉄くん」 「はい?」 「猪里くんと君は、……」 二の句をどう告げようと牛尾が目を伏せると、虎鉄はベンチに座り、牛尾の次の言葉を待った。 「君は…」 「浮気してたんですKa?俺To」 「え?」 虎鉄の突飛な発想にまた驚いて、牛尾は顔を上げた。 「冗談と思いますけDo。あいつ、…猪里、俺と恋人同士だったって云ってましTa。だから浮気かなっTe」 「……」 どこでどんなことが起こってこんなすれ違いが起こったのだ、と思ったら、牛尾はいよいよ何を云ってやればいいかわからなくなってきた。 「…本当のとこどうなのか知りませんKa?」 「いや…僕は…」 こう云っておくのが一番無難だ、と思いながら牛尾は首を振った。 今自分が発した一言で、事態がこれ以上に縺れていくなんて到底耐えられなかった。 「……すみません。ややこしい話しちゃっTe」 虎鉄は虎鉄で、牛尾はこの昼ドラみたいなよくわからない展開に驚いているのだ、と思い込んでいた。 「…牛尾」 「あぁ、蛇神くん。…掃除お疲れ様」 蛇神が部室へ行くと、そこでは牛尾が一人でパイプ椅子に腰掛け、呆然としていた。 「大丈夫か」 「…何がだい?」 その平生とは少し違う様子の牛尾を案じて、蛇神は声を掛ける。 「…なんて云ってもばればれだよね。虎鉄くんと猪里くんのことを考えていたんだ」 蛇神は牛尾の向かいのベンチに座った。 「何でよりによって今、あの子達にこんなことが起こってしまったんだろうね。あの子達、何も悪いことなんかしてないじゃないか」 牛尾が苦笑しながら云う様子を、蛇神はじっと見つめていた。 その蛇神へ手をのばし、牛尾は蛇神の手をぎゅっと握った。 「…」 「牛尾?」 「…只二人で毎日を幸せに暮らしていることが、そんなにいけなかったのかい?それが一体誰に迷惑をかけていたというんだ」 蛇神は牛尾の手を引いて、牛尾を抱き寄せた。 「へ、蛇神くん…!?」 「牛尾が悔やむことはない。いつかきっと元通りになる日も来る」 「でも、いつかじゃ手遅れかもしれないんだよ?」 「…」 「やっと気付いた頃にはもうお互いの心が離れてしまっているかもしれないんだよ…!?」 心痛のあまり殆ど泣きそうになりながら、牛尾は蛇神の肩口に自身の顔を押し付けた。 蛇神はこれまでに牛尾のこのような姿は見たことがなく、少し戸惑った。 蛇神は沈痛な面持ちで、牛尾の背を撫でた。 「そうは云っても、我らが下手に行動を起こしても事態を重くしかねん。牛尾が痛哭するのもわかる。だがここは黙って見守るしかない」 「…ん」 「何も出来ないからこそその分もどかしく、辛い。それは我も同じ也。だがこれも本人達の為と思えば」 「……うん…」 蛇神に抱きすくめられたまま、牛尾は大人しく返事をした。 「あいつな、俺が親友やけん信じる、云いよった」 「…」 「ということはよ。結局信じとうは牛尾さんのみで、俺ではなかやろ」 「……」 この日は、6時間目が終わってすぐに猪里は黒豹の教室に駆け込んだ。 いい加減に虎鉄に付き纏われるのも嫌になってきて、真剣に二人きりでいろいろと話を聞いてもらいたかったのだ。 記憶があるのとないのとでは、まるで扱いが別人のようだ、と黒豹は思った。 「…全然、話見えへんねんけど」 教室の掃除が終わり、生徒が一人また一人と減っていくのを眺めながら、二人は大した会話もせずに待ち、やっと二人きりになれたところでこうやって話し始めたのだった。 「俺の名前を虎鉄に教えよったんは牛尾さんよ。俺らが親友、てのも」 「うん」 「…虎鉄、人を信じよらんやっか。ばってん、俺を親友やけん信じる、云いよる。てことは、あいつは牛尾さんの、虎鉄と猪里は親友、て言葉しか信じとらんことになる」 「なんでそうなんねん?」 呆れた口調で云う黒豹に、尚も猪里は真剣に続けた。 「虎鉄は俺を信じよる訳やなかった。牛尾さんを信じてそれを前提に、俺も信じてやっとるだけ。そいけん、きっと牛尾さんを信じられんようになったら俺も信じられんくなりよるんよ」 猪里がこれだけ疑っていれば、そりゃあ一緒にいるのも辛くなってくるだろうと思いながら、黒豹は聞いていた。 「…でも、もしそうやとしてもそれはどうにもならんやん。虎鉄は無意識かもしれんし。…そうや。本当はタケのこと信頼して依存しきってるのに、それを形容する言葉が見当たらんからそう云ってるだけかもしれん」 「…」 云い聞かせるように黒豹が云うのを、猪里はじっと聞いていた。 「な?」 あまりにも猪里の反応がないので黒豹が確認してみるが、猪里は俯いてしまった。 「…こら。俺の話ちゃんと聞いてたやろな?」 そう云って猪里の顔を覗き込むと、黒豹はそのまま口付けた。 「ん…ッ!?」 「罰よ。返事しーひんかった」 一度唇を離したがまたすぐに猪里のそれを塞ぎ、あわよくば、と黒豹は歯列を割って舌を侵入させようとした。 「ん、んん…ッ」 猪里は黒豹の服を引っ張ったりなど抵抗をしてみたが、いとも簡単に両腕を捕まえられてしまい、成すがままという風である。 「ふぁ、ぁ…ん、」 しばらくすると、黒豹が舌を絡めるのに猪里も応えるようになってきた。 もう大丈夫かと思って解放した手も、いつの間にか黒豹の背にまわっている。 「……、タケ…」 「はぁ、は…ッ、」 ゆっくり唇を離すと、猪里は荒い呼吸を繰り返した。 「もー虎鉄なんか諦めて俺にしとき?」 その猪里を抱き締め、黒豹は耳元でそっと囁いた。 自分でも卑怯だ、と思う。 弱っているときに甘い言葉をかけてやるというやり方は。 「……」 大分呼吸の整ってきた猪里は、黒豹の肩口に顔を埋めた。 「…今俺はクロちゃんと付きあっとーつもりでいるんよ?何を今更…」 「タケ」 猪里の言葉を遮り、黒豹は猪里の名を呼んだ。 「そうなんやったら、虎鉄を想うのはもうやめてしまい?」 「………」 「虎鉄の為に悩んだり泣いたりしてるお前をもう見てられへんねん」 「…………」 猪里は返す言葉を探した。 「……、」 「ん?」 「虎鉄…」 「タケ、お前…」 「そうやなくて!そこに虎鉄がおる」 猪里が慌てて体を離したので、黒豹が教室のドアの辺りへ視線をやると、そこには虎鉄が立ち尽くしていた。 「…何や虎鉄。覗きとはちょいいい趣味してんやん」 「そりゃあどうもね、バカップルMe。猪里借りてっていいKa?」 「俺…?」 無表情のまま虎鉄が悪態をつくと、黒豹もさして反応を示さずに云った。 「何で?」 「何でって、部活よ部活。そろそろ始まる時間だからお迎えにあがった次第でSu」 恋愛感情だけでも思い出し、少しでも嫉妬してくれたのではないかという猪里の淡い期待も見事に崩れさり、猪里のそれに気付いていた黒豹も、先程の告白は受けてもらえないな、と思った。 猪里が鞄を持って立ち上がる。 「わざわざ、ありがとう…虎鉄」 そして、薄ら笑い、とも云えるような笑みを浮かべた。 「あ、そうDa」 「え?」 「今日、部活終わってから時間あるKa?」 「特に用はなかよ?」 「じゃあさ、家来てくんNe?」 虎鉄が云うと、猪里は黒豹を振り返った。 「そいやったら、クロちゃんも…」 「ごめんなぁ、俺これからバイトやねんか」 助けを求めて云ったつもりだったが、笑顔で返されて猪里は困ってしまった。 「じゃあ決まRi。約束だからNa」 「…うん」 猪里が神妙な面持ちで返事したのを見て、虎鉄は微笑んだ。 飲み物を取ってくるからちょっと待っていてくれ、と云われて部屋に置き去りにされてから5分程経った。 虎鉄の部屋は、最後に猪里が訪れたときと同じように、綺麗に片付けてある。 (最後に来たんは、確か喧嘩の前の日やったか…) 少々ちらかっていたのを自分が片付けたのだ、とそのときのことを思い返しながら猪里は部屋を見渡した。 ふと、机に積んである数冊のアルバムが目にとまった。 よく見てみれば、付箋が挟んである。 「…?」 猪里はそれを見てみようかと思ったが、虎鉄が戻ってくる足音が聞こえたのでやめた。 「お待たせ、猪里」 「遅かったっちゃね」 「いろいろ手間取っTe」 未だに自宅のキッチンのどこに何が置いてあるのかあまり把握していないのか、虎鉄は曖昧に笑いながら部屋の真ん中に置いてある小さな机へお盆を置いた。 「…はい、こRe」 そう云ってオレンジジュースの注がれたコップを猪里の前に出す。 「…どうも」 妙に他人行儀になりながら、猪里はオレンジジュースを一口飲んだ。 「……」 話題が見つからないのか、数分間二人はちびちびとオレンジジュースを減らしながら沈黙を守っていた。 猪里としては、何の為に呼ばれたのかわからないので余計にいろいろ考えてしまう。 「…」 どうしたものかと思ってちらりと虎鉄を見ると、丁度先程のアルバムに手を伸ばしているところだった。 そしてそれを自分の座るすぐ横へ置き、決心したように顔を上げる。 「猪里」 「…ん?」 猪里は小首を傾げて虎鉄を見つめた。 「俺、まじでお前と浮気してTa?」 「は?」 何を云うかと思えば、という感じで猪里は思わず頓狂な声を上げてしまった。 「アルバム、見たんだWa。今まであんま見たくなくて放っておいてたんだけど、やっと決心ついてSa。したら、俺がお前にキスしてる写真とか、裸で抱き合ってる写真とか、いろいろあっTe。ほRa」 そう云って虎鉄は付箋を挟んだページを開き、猪里へ渡した。 「うわ」 それを見て猪里は思わず声を上げる。 「ばり恥ずかしか…。なんでこげん下らんもん残しよるかねー…」 「メールもたくさんあったZe。愛してるぜ、とか大好き、とKa。セックスの話もたまーNi」 「……」 猪里は絶句した。 何だか、証拠を叩き付けられた犯人の気分だ。 猪里を追い込む為の言葉が、また発せられる。 「…本当のこと、云ってくれYo」 「……」 前にちゃんと本当のことを云ったではないか。 そうしたら、お前はそれを笑い飛ばしたんだ。 猪里はそう云ってしまおうかと思ったが、少し躊躇った。 ちゃんと虎鉄に思い出してほしかったのだ。 自分が恋人であること、どういう経緯で付き合うことになったのか、初めてのデートやキスはいつだったのか、どんな喧嘩をして、仲直りをしたのか、全て。 「虎鉄…」 何を云ったらいいかわからなくなって虎鉄を見つめると、虎鉄も真っ直ぐ猪里を見つめ返した。 「……、」 いたたまれなくなって猪里が目を背けると、虎鉄はゆっくり猪里へと近付き、そして隣に座った。 虎鉄が近くに来たことで、猪里は自分の脈拍が上がったような気がした。 (落ち着け俺…!) これではまた片想いのときに戻ったみたいだ、と悠長に考えている間に、猪里は虎鉄に押し倒されてしまった。 「な……ッ!」 「…抱いたら、思い出せっかNa」 猪里の顔を、左から覗き込むように自分の顔を近付かせ、虎鉄は囁いた。 猪里は自分の顔が上気してきたのがわかって余計恥ずかしくなってきた。 「阿保なこと云いよらんとさっさとどけ!やないと…ッ」 「じゃないと、何Da?」 猪里の胸をまさぐりながら、虎鉄は意地悪く口の端を吊り上げた。 「や…ッ」 猪里はこのまま大人しく受け入れるべきか考えた。 このままこの行為を受け入れることにより、虎鉄は記憶を取り戻すかもしれない。 でも、今この瞬間の虎鉄に、猪里に対する恋愛感情はきっとない。 そんな人間に抱かれたくない。 だがそれで記憶が戻るかもしれない。 一瞬で猪里の頭の中でいろいろな葛藤が起こった。 が、それより先に体が動いてしまった。 「……ッ!!」 猪里が虎鉄の右脇腹を思い切り蹴り上げると、受身を取ることも出来なかった虎鉄はそれをまともにくらって、猪里の横に倒れ込んだ。 「な、にすんだYo…ッ」 脇腹を押さえて呻くように虎鉄は云う。 体を起こして猪里はそれを見下ろしながら、返事をした。 「云うたやろうが。さっさとどけ。やなかったら…て」 今度は猪里が意地悪く笑ってみせると、虎鉄はそーかよ、と短く返事をした。 「人間の横腹には脾臓っちゅー臓器があるとよ。それは、殴られたり蹴られたりしただけで破裂しよるらしか」 虎鉄はまだ痛そうに横腹を押さえながら聞いていた。 「次こげんことやりよったら破裂さす。したら最悪死ぬよ、お前」 「お前もし今のDe…」 虎鉄が体を起こしながら云うと、云う途中で猪里は云いたいことを汲み取って言葉尻を攫った。 「そげん場所に脾臓はなか。脾臓は胃の左側にありよると」 それだけ云うと、猪里は立ち上がった。 「…質問にぐらい答えてけYo」 そのまま部屋を出ていこうとする猪里をなんとか引き止めようと虎鉄は声を掛けたが、猪里は一言だけ云ってさっさと出ていってしまった。 「そげん野暮ったいこといちいち答えたくなか」 「…」 卑怯だ、と思った。 結局自分は勇気を振り絞って真実を聞き出そうとしたというのに、只痛い思いをしただけだった。 それとも、自分達が恋仲だったということをいちいち云わせるな、と云いたいのか。 出来ればそうだといいな、などと考えながら虎鉄はアルバムの写真の中で無邪気に笑い合う自分と猪里の姿をぼんやりと眺めた。 NEXT |