* よもつひらさか:4 *




















事故が起こってから一週間弱で頭の包帯は取れ、それから更に三日後、虎鉄は登校して来た。
最初の頃はそれはもう周りからちやほやされまるで転校生の如く扱われていたが、更に一週間とちょっとが経った今となっては周りも大分慣れてきたし、虎鉄もまた新しくいろいろなことを覚え、たいして不自由しなくなってきたように見えた。
授業を除いては、だが。
人の顔と名前ならともかく、これまでの授業の内容を短期間で覚え直すのは難しく、しばしば虎鉄はやけくそになって教科書を投げたり子供のような行動を起こして猪里の手を焼いた。
だがそこは根気強い猪里である。
何とか説得して荒れる虎鉄をなだめ、一緒に参考書のページを繰ったりしていた。
そうしているうちに、いろいろなことがわかった。
虎鉄は、人について顔や名前は両親や自分のものでさえ忘れ去っていたというのに、勉強については高校初期のものまでは大体人並みに覚えていたのだ。
それを知って記憶喪失とは不思議なものなんだな、と感心してしまったのは何も猪里だけではないらしかった。












「Hey凪★お前の細い腕にそんな重たいもんは似合わねーZe!」
「いえ、でも悪いですから…」
「いーってことYo」
グラウンドで虎鉄が凪の荷物を持ってやっているのを眺めながら、猪里はベンチで涼んでいた。
「ナンパの仕方は死んでも忘れよらんな、あいつ…」
「はは、虎鉄くんらしくていいじゃないか」
猪里が独り言のつもりで呟くと、丁度そこを通り掛かった牛尾が云った。
「記憶なんかなくっても女の子がおれば生きていけるとですよ、きっと」
「そうなのかなぁ」
曖昧に返しながら、牛尾はベンチの横に積んである箱の一つを持ち上げた。
「あ、手伝います」
「悪いね」
「いえ。どこに運ぶとですか?」
「体育館の用具倉庫までだけど、大丈夫かい?」
「平気です」
猪里と牛尾とで一つずつ持っても、あと箱は三つ残っていた。
それはまた後で帰って来てまた運ぶとして、二人が体育館へ向かおうとしたとき、虎鉄が二人のもとへと駆けて来た。
「俺も行Ku」
残っていた箱のうち一つを適当に選び、虎鉄は猪里の横に並ぶ。
「助かるよ」
「いえいE」
牛尾がにっこり笑むと、虎鉄も八重歯を覗かせて笑った。
「凪ちゃんはどうしたと?」
「あー…あっちのは運び終わったから今度はこっちに来て手伝おうと思ったんだYo」
少々言葉を濁しながら虎鉄が云うと、猪里はふーんと短く返事をした。
そういえば、と猪里は思う。
学校にいる間、虎鉄とはずっと一緒にいるな、と。
一緒にいるというより、お互い常に姿が確認出来るところにいる気がするのだ。
猪里にそうしようというつもりは全くなく、只どこか見えないところに行こうとすると虎鉄がついてくるという状態だったのだが、猪里にはそれが何なのかよくわからなかった。








「どこにでもついて来よるとよ。あいつが教室ん中でクラスの人と喋っとっても、俺が廊下に出ようもんなら話中断させてでもついて来よる」
「……」
「ん?聞いとー?」
やはり虎鉄がついてきてしまうので、休み時間に黒豹の教室に乗り込むことも放課後校舎裏へいくことも出来ずに相談したいことを溜め込んで、猪里は苦肉の策として休み時間に携帯で黒豹を自分の教室へと呼ぶことにした。
自分の教室にいれば、虎鉄が傍にいることもなく黒豹と一対一で話が出来ると思ったのだ。
そして自分の思ったことをいろいろ話してみたのだが黒豹の反応が薄く、猪里は困っていたのだった。
「なーどうしたらよかね?」
「…嫌なん?それ」
「嫌やなかよ。ばってん…」
「ん?」
「事故前よか、ずっと一緒におる気がする。あいつ未だに俺とクロちゃんが付き合うとると思いよるとに」
「………」
そういえばそんなことになってたな、と思いながら黒豹は視線を泳がせた。
黒豹には、猪里が心底困っているようにも見えたが、また惚気ているようにも見えたのだ。
本人にそのつもりはないのだろうし、もっと話の本質的な部分に触れなければならないのはわかっていたのだが、なんとなく気乗りしなかった。
「……あ、そういや忠に辞書貸しに行ったらなあかんねんた」
「ちょ…ッ」
猪里の引き止めの言葉を聞く前に、黒豹は立ち上がった。
「そんなに気になんなら本人に聞いてみいさ」
それが出来たら苦労はしない、という言葉を飲み込んで、猪里はさっさと去ってしまった黒豹の背中を見送った。
「ばり最悪ぞ。逃げられたっちゃ…」
優しいんだか冷たいんだかわからない友を想って、猪里は呟いた。
(そーや。そういや俺も教科書を返しに行かんと…)
授業変更のせいで急遽グラマーの教科書が必要になったのだが、事前に聞いていなかった猪里は隣のクラスの長戸に借りていたのだった。
確かそのとき虎鉄は、前の授業の教師と何やら話をしていて、猪里があっという間に帰って来たのもあってか、猪里が教室を離れたことすら知らなかっただろう。
猪里はグラマーの教科書を持って席を立った。
すると案の定というか、教室を出る辺りで虎鉄に声を掛けられた。
確かこいつつい今さっきまで近くの席の女子と楽しそうに話していた筈だ、と猪里は思った。
「どこ行くんだ?」
「隣の教室。教科書返しに。すぐ戻ってくるけん」
だからわざわざついて来なくても平気だ、という意味合いを込めて云ったつもりだったが、虎鉄はそれに気付いているのかいないのか、一緒に行くと云った。












週が空けて、月曜になった。
そしてこの日から猪里の班に掃除当番が当たるようになり、班の違う虎鉄に先に部活に行くように云ったが、手伝うと云われてしまい、猪里は返す言葉がなくなってしまった。
昔は、自分の班に当番が当たっていてもさぼって逃げるような奴だったのに。
頭を打ってまともになってしまったのかと猪里は思った。
また数日後、今度は虎鉄に日直が当たった。
日誌を書く為に居残らねばならないのだが、虎鉄がどうやって猪里に一緒にいてもらおうかと口実を考えて困っているような気がしたので、猪里は自分から声を掛け、虎鉄が日直の仕事を全て終えるまで宿題でもやりながら待っていた。
「…なー、虎鉄?」
そういえば、事故以来こうやって本当に二人きりになれたのは初めてかもしれない、と思いながら猪里は虎鉄に話し掛けた。
「ん?」
虎鉄は日誌を書く手を止め、顔を上げた。
「お前とこげんゆっくり話すんは久し振りとね」
「………」
虎鉄は黙って目を伏せた。
「…つっても覚えてなかけんね。ごめん。意地悪云うたな」
猪里が苦笑すると、虎鉄も愛想笑いのようなものを浮かべた。
事故以来虎鉄の口数が減ったと思う。
まずこれは当たり前だがむやみやたらに愛してるだの何だのと云わなくなったし、最近あって面白かった出来事や腹が立った出来事の話しも減った。
他にも、トレードマークともいえるバンダナもよくしてくるのを忘れ、たまにしてきたと思っても同じ柄のものばかりだった。
この日だってバンダナを忘れ、本人いわくあってもなくてもどうでもいいものだからつい忘れてしまう、とのことだった。
猪里ももう指摘するのが面倒になってきたので、バンダナの話題にすら触れなくなった。
それから、猪里がいつもと違う行動を起こしても珍しがらなくなった。
適応しているのかと思ったが、やはり本質的な部分が欠落してしまっている。
猪里はここ数日でそれに気付いた。
「…そうや。長戸が、こんなときで悪かばってん500円返せー云いよっとばい。超が付いても足らん程金欠らしか」
「500円?貸してたのKa?」
「うん。俺が連帯保証人よ」
云って笑ってみせると、虎鉄も笑った。
「まじDe?」
「まじまじ。貸す奴皆お前だけじゃー信用ならん!て云いよるけん、俺が連帯保証人になっとっと」
「Heー」
虎鉄が笑って、猪里は安心したような気がした。
こころなしか虎鉄も少し安堵したような顔を見せる。
「何か、あれ返せこれ返せって云ってくる奴が何人かいたからSa。どーしたらいいんだろうって思ってたんDa」
「…俺がおるけん、大丈夫よ」
「ありがTo」
猪里が微笑むと、虎鉄も笑んで返した。
「何かさ、記憶なくなってから誰も彼も信じられなくなってきちまってSa。…俺自身Mo。近くをうろついてたらたまに迷うし、部屋でごろごろしてても違和感感じるし、俺は初対面みたいなつもりで接しても相手は俺のこと知ってっSi…」
「…うん」
「やっぱ一番大きいのは人間関係かNa。信用できねぇから、その分……怖い」
前から虎鉄はそうだった、と猪里は思った。
一見広く深い付き合いをしているように見える虎鉄だが、よくよく見てみると、ごく一部の人間以外には物凄く冷たかった。
表面的には、笑顔も作るし気があるふりだって何だってしたが、まず根本的に、その人間を信用するということを虎鉄はしなかった。
信用をしないから、期待もなく、だからこそその人間に対して苛立つこともせずに笑っていられたのかもしれない。
今虎鉄が云うのはきっとその、虎鉄の表面しか知らない人間達のことだろう。
いつでもけらけら笑っている、軟派で不甲斐ないだけの虎鉄。
でも虎鉄自身、誰が自分で選り分けた人間かもわからないでいるので、余計混乱しているのに違いない。
結局のところ怖いのはそれで、人ではないのだろう。
「…聞いてよか?」
場違いな質問かと思ったけれど、猪里は少しの期待を込めて、ずっと思っていたことを聞くことにした。
「あぁ…うん」
「お前さー、…ずっと俺について来よるやっか。なんで?」
「ごめん、嫌な思いさせたKa」
「ううん、違くて…。言葉きつかごたる聞こえよるかもしれんばってん、これは方言のせいで…」
猪里が慌てると、虎鉄は笑った。
信じてくれたのだろうか、と思う。
「お前がいねーと不安でSa」
「へ…?」
「お前が一番の親友だったったらしいから、…お前がいねーと不安でたまんなかっTa。誰に騙されて間抜けだと笑われても、きっと俺は気付かずにへらへらしてるだRo。んな痴態晒すなんて考えるだけでも恐ろしい。でもお前がいたらさ、本当のこと教えてくれんじゃN」
「………」
少し照れながら話す目の前の人物が、本当に虎鉄かと疑いたくなった。
いつもの自身満々な虎鉄はどこへ行ってしまったのだろう。
「虎鉄はさー…何で俺は信じよると?」
「え?」
「記憶飛んでから周りの人間信じられん、云うたとや?ばってん俺んことば信じてくれとうやん」
「それHa…」
虎鉄が言葉に詰まって答えられないでいる間も、猪里は虎鉄を見つめた。
どうやら虎鉄も、それには今云われて初めて気付いたという風である。
「親友、だかRa…?」
ぼそりと虎鉄が云う。
「ふーん…」
猪里は少々気の抜けた返事をして、ため息を付いた。
「親友じゃないのKa?俺達」
「…親友ぞ」
訝って聞いてきた虎鉄に、猪里はのんびりと返事をした。
「紛れもなく、親友。やなかったら俺は連帯保証人にはならん」
そう云って笑ったが、猪里は泣きたくなってきた。
「俺の云うことは信じる、云うたね」
「おぅ」
ぱっと向き直って猪里は云う。
態度が改まったので、虎鉄も姿勢を改めた。
「俺達は、親友。ばってん、恋人同士でもあったとよ?」
「………」
虎鉄は一瞬呆気にとられたような顔をしていたが、すぐに破顔した。
「改まって云うから何かと思えBa…」
「な、何ね」
「お前黒豹と付き合ってるって云ってたじゃねーKa。いくら俺がいい男だからって浮気はいけねぇZeー」
そう云って笑う虎鉄の顔を見て、声を聞いて、猪里は本当に泣こうかと思った。








「事故遭ってから、何人とヤりよったとね、お前」
また虎鉄が日誌書きに戻って数分後、猪里はいきなりそんなことを云い出した。
虎鉄は静かに顔を上げる。
「…」
「ほれ、どがんしたと。こげんこと恥ずかしがりよる可愛か心は持ち合わせとらんとやろ」
猪里が挑発的に笑ってみせても、虎鉄は無表情のままだった。
虎鉄はまた日誌へと視線を落として手を動かし始める。
「10人」
虎鉄が云った。
「嘘や」
さして動揺もせず猪里は返す。
「嘘Yo」
「…………」
「んなぶーたれた顔すんなよ可愛いNa」
「せからしか」
朗らか、という言葉が似合う胡散臭い笑みを浮かべながら虎鉄が云うと、猪里はそっぽを向いた。
「0だよ0。尻の軽そうな女ですら怖くてたまんねぇ」
冗談とも本気ともつかない様子で云っている虎鉄のほうへ、猪里は視線を戻した。
「…お前がそれでよくもちよんな。溜まらんとね?」
「えっちなこと考えねぇ清い人間だから大丈夫なNo」
「きもかー。虎鉄にはありえんことばっか起こりよる。やっぱ頭打って少しまともになってしまったとかいな…」
猪里が頭を抱えて演技がかった口調で云うと、虎鉄は吹き出した。
「おいおい人を性欲の塊みたく云ってくれんなよNa」
「………」
「…ん?」
今まで明るい調子でいた猪里が急に黙り込んだので、虎鉄は顔を覗き込んでみた。
途端、猪里の顔が急に明るくなって虎鉄は少し後ずさった。
「今度映画観に行かんね?」
「ど、どうしたんだよいきなRi」
「前にね、虎鉄が観に行きたかーて云いよった映画があったと。『tragic love』とかゆう恋愛もん」
「何だよ無視Kaぁ?」
虎鉄の声を聞くような様子もなく猪里は至ってマイペースに続けた。
「それ観たら、俺きっと泣くやろうって。そんで、俺に…、…」
「…?」
虎鉄は質問をやめ、もう大人しく猪里の話しを聞くことにしていた。
「俺に…」
(『俺に惚れ直すぜ、きっTo!』とか云うとったかいな…)
「…」
「…たくさん、訳わからんこと、云いよってー…」
云いながら、猪里はぽろぽろと涙を流していた。
「猪里…」
慰めてやりたい、と虎鉄は思ったが、言葉が見つからなかった。
それに、今の自分ではきっと何を云っても傷つけてしまう。
そう思ったら、涙をそっと拭ってやるのでさえ憚られて、虎鉄は微動だに出来なくなってしまった。
「……絶対、一緒に見に行こう、云いよったんはお前やっか…ッ」
一粒二粒、また涙が猪里の頬を伝って落ちた。












「…独りで何泣いてんの」
「……泣いとらん」
教室でぼうっとしていた猪里を黒豹は偶然見つけ、声をかけた。
ゆっくり黒豹を振り返った猪里の目は、赤くなっていた。
「…」
「…また泣いたやろ」
「……」
猪里は黒豹から視線を外した。
「…勝手にいろいろ思い出して、いろいろ喋って、ぼろぼろに泣いた」
ぼそぼそと猪里が云うのを黒豹は静かに聞いていた。
「女々しかー。ばり女々しか。俺はまだこげん虎鉄を好いとー」
「……」
「ばってん、あっちは何も覚えとらん。記憶飛びよる前に喧嘩もした。きっと神サマも別れどきやと云うとっとかいな」
猪里は苦笑したが、黒豹はぴくりともしなかった。
「俺…、子津くんには悪かばってんクロちゃんと本当に付き合ってしまおうかね」
黒豹はゆっくりと猪里に歩み寄った。
椅子に座った猪里の前に回り込み、猪里を見下ろした。
そしてゆっくり顔を近付ける。
「……」
猪里が目を閉じると、黒豹は少し躊躇った後、猪里の唇に自分のそれを重ね合わせた。
「…えーよ」
差し込んだ夕陽のせいで猪里には黒豹の表情は見えなかったが、猪里は微笑んだ。




















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