* よもつひらさか:3 *




















「おはようさん。どーやタケ。仲直りはしたか?」
「あー…いや、その、何つーんかな…」




朝のんびりしすぎたせいで1時間目の授業に間に合いそうになかったので、猪里はとりあえず1時間目と2時間目の間の休みに着けるよう家を出た。
学校に通うのも2年目になると、家から学校まで何分で着くのか結構正確にわかってくるものである。
猪里は家から自転車で通学していて、電車のダイヤや乗り継ぎに左右されることもないから尚更だ。
「その調子やとまだやな。聞き!朗報やで!」
「何ね?」
黒豹があまりにも明るく云うので猪里は圧倒されてしまい、本当のことがなかなか云い出せなかった。
虎鉄は記憶喪失になってしまった、などと。
「梅星がな、一昨日虎鉄に告りよったんが誰かつきとめはってん!何や友達の友達やってんて」
「…ふーん」
猪里は気のない返事をした。
だが黒豹はどんどん続ける。
「んでな、聞いてみたら、そのコしっかり振られとったらしいで。しかも、どうせ振られんならって不意をついてキスしたってんて云わはったってさ」
「そげんこた知っとっちゃ」
「はぁ?」
猪里があっさり答えると、黒豹が身を乗り出して来た。
「ちゃんとわかっとったとよ。その子屋上から出てくとき泣いとるの見たもん」
「知っとって何で…」
少し呆れたように黒豹が云うと、猪里は目を伏せた。
「どっちにしてももーよかよ」
「何や?こんまま虎鉄と喧嘩別れでもするん?」
「虎鉄は喧嘩のことなんぞもー忘れとーけんね」
「は!?」
黒豹は大声で云った。
そのせいで視線が二人へ集まったが、二人して気にも止めなかった。
「何なんそれ!?ひどすぎひんか虎鉄!」
「…違かよ」
「何がなんよ!」
「…」
猪里は黒豹を見上げた。
「あいつ、…記憶喪失になりよったと」






猪里と黒豹は廊下を歩いていた。
普通であれば2時間目の授業を受けている筈なのだが。
虎鉄が記憶喪失であると告げた直後にチャイムが鳴り、授業が始まろうとしていたところを、黒豹が猪里の腕とその荷物をひっつかんで出て来てしまったのだった。
「で、今虎鉄どこにおんの」
「病院ぞ」
「よし、じゃ病院行くで。案内してや」
「…よかよ」
教室を出てからの会話はこれだけだった。
その後黒豹の教室へも行き、荷物を取ってくると二人で急いでバス停に向かった。
学校に数十分しかいなかったなんて、初めてかもしれないと思った。












「…俺も入らないかん?」
「当たり前やん」
病室の前まで来て急に猪里は怖じ気づきだした。
これからこの中へ入って、何をするのいうのだ。
初めまして、猪里です、なんて挨拶がやはり要るのだろうか。
考えるだけで気が滅入ってきた。
「いいか?入るよ」
猪里の返事を待たずに黒豹はもうドアを開けていた。
「…あ!猪里Daッ」
「え…?」
ドアが開いた瞬間、挨拶よりも何よりも先に虎鉄からそんな言葉が飛び出した。
黒豹は数歩中に入ってから足を止めたが、猪里はまだドアの前に立ち尽くしていた。
「虎鉄…、お前…?」
「昨日、お前と一緒に入って来た金髪の人に聞いたんだYo。お前の名前は猪里。で、俺と一番仲良かったのがお前だ、っTe」
「そー…か」
いきなり名前を呼ばれたことで一瞬混乱したが、やはりまだ記憶が戻っているのではないことがわかって猪里は少し落胆した。
そうして猪里も病室に入るのを見届けてから黒豹はベット脇の椅子に座った。
「どうも」
「どーMo。悪いが名前を教えてくんねーかNa」
別段怪しむ様子もなく、虎鉄はあっさりそう云った。
「…黒豹一銭。記憶喪失っちゅーんはほんまやってんな」
「生憎ながらNa」
虎鉄は肩をすくめながらおどけるように云った。
「で、俺前は何て呼んでTa?」
「何でもいいやん。今また好きに決めてしまい」
「…んじゃあ黒豹。いいか?」
「えーよ」
案外普通そうに会話している二人を猪里は遠くに感じながら眺めていた。
「で、俺とお前はどーいう間柄De?クラスメイトKa?部活の仲間Ka?…もしや先輩だったRi」
「はは、ぜーんぶはずれや。でも、友達。歳は同いや」
「ふーん…」
もとから社交性だけはずば抜けて高かった虎鉄だ。
場に適応する能力も人並み以上にあった。
だが、それがこれ程までとはと思うと、猪里でさえも感心した。
「な、昨日の金髪の人誰Da?」
ぼうっとそんなことを考えていた猪里に、虎鉄はいきなり話し掛けた。
「あぁ…あの人は、牛尾さんよ。俺らの所属しとる野球部の、主将ぞ」
「へー俺野球部Ka。じゃあさ、その牛尾さんと一緒にいた髪の長い…」
「そん人は、蛇神さん。牛尾さんとばり仲が良かよ」
「………」
「どがんしたとや」
話を聞いているのかいないのか、虎鉄は急に黙って猪里の顔をじっと見つめ出した。
「あ、いやぁすげぇ訛りだなーと思っTe」
「田舎もんやぁ思いよると?」
「ごめん、そんなつもりで云ったんじゃねぇんDa…」
「そいやったら、云うとー意味がよくわからんとか?」
「や、それも違うんDa。ちゃんとわかってRu」
じゃあ何だ、というふうに猪里が首を傾げると、虎鉄は言葉を探すように視線を泳がせた。
「えー…To。何つったらいいんだろうNa」
「まだちゃんと頭働いてへんのか」
「かもしれNeー」
云って、虎鉄は苦笑した。
そしてゆっくり続ける。
「それ、九州の方言だよNa」
「うん。俺が住んどったんは福岡とよ」
「へぇ。確かラーメンとか明太子とか美味しいっつーとこだよNa」
「………、」
猪里は言葉に詰まって、返事をしなかった。
黒豹が猪里へ視線を投げ掛ける。
「あRe?違ったKa?」
「あ、あっとーよ。また今度実家から送られてきたやつとかおすそ分けしてやるけん」
「お、まじKa」
ぎこちなく答えると、虎鉄はそれには気付かない風に笑った。
黒豹は視線を虎鉄へと戻した。
「あとわいから教えといたらなあかんことがひとつあんねんかー」
「ん?」
口の端を上げて黒豹がにっと笑うと、虎鉄が興味をもったように視線を送り、猪里は小首を傾げながら黒豹を見た。
「わいとタケ付き合ってんねん。あ、わいこいつのことタケって呼んでんねんか」
「な…ッ!」
声を上げたのは猪里だ。
虎鉄は少々驚いた顔はしていたが、猪里よりは冷静に聞いていた。
一体何を云い出すのだ、と猪里は黒豹へ視線を投げ掛けてみたがあっさり無視された。
「男同士やけど、好きなもんは好きやしさ。お前は気持ち悪いと思うかもしれんけど、お互い本気やねん」
な、と黒豹に云われて、猪里はこくこくと頷いた。
黒豹には何か計画があるのかもしれない、と思ったらこうするしかなかったのだ。
虎鉄は急に顔をほころばせた。
「気持ち悪いなんて思うもんかYo。男同士でもいーじゃねーKa。お前ら好き同士なんだRo?俺応援するZe」
そう云いながら、猪里と黒豹を交互に見ていた。
「ありがとう。記憶どっかいってもやっぱ虎鉄は虎鉄や」
そう云って、黒豹も笑った。
「そんじゃ、そろそろおいとましよか。そんじゃあな、虎鉄。あんま無理すんなや」
「まだいーじゃねぇKa」
黒豹が立ち上がると、虎鉄が意外にも引き止めてきた。
「あんまわいらが長居してたら、色んな情報が急に詰め込まれてお前の頭パンクしてしまうやろ」
「また何ぞあったら電話せんね。携帯のメモリーはちゃんと残っとーけん。…名前忘れるんやなかよ」
「それは大丈夫!」
前から虎鉄は人の名前を覚えるのは得意だったので、忘れる心配はないだろうと思ったが猪里は念を押してみた。
「…ならよか。じゃあまたね。お大事に」
微笑んで、虎鉄がまた返事するのを聞いてから、猪里は病室を出た。












「どーゆーつもりよ、クロちゃん?」
病院を後にしてからの帰り道、先ず猪里は先程のことを聞くことにした。
「んな怖い顔しんといてよ。あんな、俺とタケが付き合ってるって話は、もし虎鉄がそんなん嘘やろー男同士やん、とか云ったり、何かよくわからんけどジェラシー感じてむっとするとかないかなぁ、ていろいろ試してみてただけ」
「…?」
「むっとしたってことは、潜在的にタケと付き合ってたっちゅーこと覚えとって、無意識に妬いてることになるやん」
「クロちゃん、病人ば実験台にして遊んだらいかんたい」
呆れた様子で猪里が云うと、黒豹が悪戯っぽく笑った。
「ばれたか」
「ばればれよ」
ふう、と猪里がため息をつくと、黒豹は慌てて付け足した。
「でもな!これはタケの為にやってんからな」
「…うん。ちゃーんとわかっとー」
その黒豹の慌てた様子が面白かったのか、猪里は笑いながら云った。
「…ま、本当に恋人同士になってしまってもいーねんけどな」
「もー、何ば云うとっとー」
猪里がまた笑うと、黒豹は半分本気やってんけどな、と心の中で呟いた。








「どーすんの?今から学校戻れば部活ぐらいには出れそうやで」
とりあえず近くのファミレスで昼食を済ませ、しばらくそこに居座っているときに黒豹がそう聞いた。
「あー…よかよ、もう。何か気疲れしたけん。それに、…特に1年連中かいなね。虎鉄んことで気ぃ使われんのもばりめんどそう」
今日の自分は、というか最近の自分は何だか我が儘さが増している気がするな、と思いながら猪里は云った。
でもまぁいいか、とか思ってしまっている自分がどこかにいるのである。
「クロちゃんこそ戻らんでいいんね?子津くん待っとうとやろ」
「忠?大丈夫やろー。わいなんかいんくても何か独りで出来ることとかやってるって」
「忠て呼んどるとね」
耳ざとく猪里がそこを指摘すると、黒豹は嬉しそうににやりとした。
「お、何や?ヤキモチ?」
「阿保らしかー。どこまでいっとーと?子津くんと」
「どこまでもいかんわ。そんなんちゃうし」
身を乗り出して聞いてくる猪里を横目に煙草を吸おうとして、黒豹はここが禁煙席だということを思い出した。
例え自分はよくとも目の前の猪里は許さないだろう。
「俺応援しとーけんね」
「本気で云ってんの?」
「当たり前やっか」
猪里の調子を見て、これは本気だな、と思うと黒豹はため息をついた。
そして、猪里がこんなに恋愛話に食い付いてくるのも虎鉄の影響だろうかと思って聞いてみた。
「かもしれんなー。ばってんさ、クロちゃんのことやけん、てのもあんのかも」
云って、猪里は笑った。
「早う幸せになってほしか。クロちゃんのことば好いとーけん」
「帰るか」
「…は?」
今までの流れや文脈を全く無視して黒豹はそう云った。
特に怒っている訳でも何でもなさそうに見えたが、猪里はまずいことでも云ってしまっただろうかと内心焦っていた。
「ここは格好良くおごったりたいとこやけどな、タケようけ沢山食ったしな。自分の分は自分で払いーや」
「さ、最初から期待ばしとらんけん」
焦りながらもいつもの調子で毒を吐くと黒豹もいつもの調子で笑ったので、猪里は少し安心した。
「どこ行きよると?」
「部活ちょい覗こ。虎鉄んことで部員が集まりよったら俺が追い払ったる。場合によっちゃ自分自殺寸前みたいな暗い顔しときゃいーやろ」
精算を済ませて外に出ると、黒豹は学校のほうへ向かって歩き出した。
猪里もそれについていく。
「自殺寸前…」
「虎鉄如き記憶飛んだぐらいで到底死にゃせんてか」
「死なんねぇ」
云って、二人で笑った。








二人が十二支高に着いた丁度その頃に部活は始まり、猪里は皆に挨拶だけしてベンチに座り、監督やマネージャーの仕事をほんの少し手伝った。
だがやはり、羊谷はともかくとしてマネージャー達は極力虎鉄のことを聞かないようにしているような姿勢や気遣いが僅かながら感じられ、猪里は早々に退散することにした。
黒豹に声をかけてから帰りたかったが、学校に着いて早々校舎裏に行ってしまったので、それは諦めた。
子津と黒豹を邪魔してはいけない、と思って。
だから後でメールしておくことにした。
かわりに牛尾に声をかけると、また明日ね、と明るい返事が返って来て、猪里も負けじと明るく返事をした。
大声を出さなければ声が届かないであろう距離に蛇神の姿も見つけ、相手もこちらに気付いているようだったので、猪里は手を振って挨拶をし、学校を出た。




















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