「フロイト分派の精神分析学者フリッツ・ウィッテルスに因れば、人間の極めて激しい情欲は口帯と関連しているそうだ。それを『オーラル・サディスティック・ゾーン』と呼ぶそうだが…まァそれはどうでもいいだろう。彼は様々なエピソードを挙げ、『いかなるときに、我々は口帯の過度の発達を異常と呼び、また、いかなるときに正常と呼ぶか?』と問いただしている。『口帯の過度の発達』とは食人趣味や人の血を啜るような行為を指すことは想像に難くないな。だがそれを習慣とする部族もいる。食人を異常と呼ぶのは日本のようにその習慣がないところだろう。自分達に無い習慣などを異常と呼ぶのはこれに限ったことでは無いと思うが、これも今はどうでもいい。吸血鬼を論じようと思うと、必ず引き合いに出されるのがこの食人などについて。『食べてしまいたい程可愛い』という例えが、吸血鬼発祥の地、南スラブから出ていて、今も性交時に互いに噛み合うのが習慣として残っているそうだ。ドイツの劇作家クライストは『キュッセとビッセは語尾が似ている』と書いている。
キュッセは口付けでビッセは噛むこと。まあこれは言葉遊びみたいなものに聞こえるがな。とにかく俺が思うに、吸血も食人も口付けたいという欲の延長上にあるものだと思う訳だが、そうすると吸血鬼というのは実在したことになるな。悪魔や鬼などではなく、現実に存在する人間として。もともと吸血鬼だけは悪魔や神より人間に近いとされているから、あながち間違ってもいないんだろう」
















*  我が愛しのヴァンパイア  *
















「…今、云うのか、それを?」
薄い体に覆いかぶさり、村神は呟くように云った。
服を一枚ずつ剥ぎ取られながらこんなことを云う人間を村神は他に見たことがない。
「……噛み付いてほしいのか」
「そう思うか」
「思っていいならな」
云って、村神は空目の鼻の先に口付けた。
一糸纏わぬ二人の上に、正確には空目の上にいる村神の更に上だが、申し訳程度に掛け布団が乗っかっている。
寒くないのかと訊かれると、村神は正直に寒いと答えるところだろう。
空目はどうかわからない。もとより暑いとも寒いともあまり訴えない。だが自分より体温の高い村神に乗っかられてこちらは結構あたたかいのかもしれない。
「煽ってるように聞こえなくもないんだが?」
脇腹を撫でると、村神の背中になんとなく乗っていた細い腕が、少し動いた。
「…都合の良いように解釈すればいい」
「どんなつもりで云ったのかぐらい云えばいいじゃねェか」
「…」
脇腹から胸へ、胸から首筋へ指を滑らせると、空目から目を離してそこへ口付けた。
「…、」
「俺がその通りのことをするかどうかは別として。理解ぐらいはしてやれるかもしれないしさ」
「…」
「空目?」
「…必要ない」
「そうかよ」
苦笑して、村神は空目の唇にそっと口付けた。




















制服のシャツがだらしなくズボンからはみ出ているのに気付いているが、たいして直そうとも思わずに村神は裸の足でぺたぺたと居間を歩き回っていた。
空目より先に目が覚めてしまって、手持ち無沙汰に思ったのでさっさと布団から這い出て居間に来た。
起きたら隣に村神がいなかったからといって怒りも拗ねもましてや泣きもしないであろう空目などは一切気に掛けずに放ってきた。
本が積み上がっていたりと片付けやら何やらすることはあるのだが、何故だかてんでやる気が起こらなくて、村神はソファにどかりと座った。

何だか妙な気分だ。
やることはあるし、それもわかっているのにやる気だけがどこかへ行ってしまった。
朝陽を受けて薄らぼんやりと光るカーテンを眺めて、村神は息を吐いた。
「年寄り臭ェ」
呟いて、喉の奥で笑った。自嘲だったのだと思う。
「全くだな」
「…、」
思いもよらぬ返答に、村神は戸の方を見た。
適当に服を着込んだ空目が、村神とは目を合わせずに居間に入ってきた。
独り言を聞かれていた、ということが何となく恥ずかしくて、村神も空目から目を逸らした。
「…いつから」
「ちょうど、年寄り臭い、と言ったとき。他は聞いていない」
他も何もそれが全部だ。
聞かれたから何だという内容でもないが、どうしたものかと村神は頭を掻いた。
「…」
そんな村神にやっと視線を寄越し、空目はソファへ腰掛ける。
「『どんなつもりで言ったのかくらい』聞いてやったほうがいいのか?」
「訊くなよ…」
昨夜の睦言を平気で再現する空目にため息をついて、村神は空目の頭に手を乗せた。
空目は表情を変えない。
「まあ、何だ。お前は訊いても答えなかったんだから俺も答えない。でいいだろ」
「…『年寄り臭い』と笑った裏にそんなに深い意味があるとそもそも思っていない」
村神の返答を冷たくあしらって、空目は頭の上にある村神の手をどかした。
それから、その手のひらの真ん中に、ゆっくりとした動作で口付ける。
「…昨日、何つったっけか、お前」
手のひらに感じるむずがゆいような感触と、背筋を何かが這うような感覚を覚えながら、村神は平生通りを装って問いかけた。
「『いかなるときに、我々は過度の口帯の発達を異常と呼び、また、いかなるときに正常と呼ぶか?』」
呟くように返して、空目は腕を解放した。
「…。…キスしていいか」
空目の頬を撫でて、村神は呟いた。言ってから、酷く恥ずかしい気分になった。
思えば、こんな問いかけはこれまでしたことがない。
「したらいいだろう」
これまでのようにこんな確認などせずに、と言外に含んで、空目は答える。
していいか、と答えのわかっている問いを発して、改めて、構わないのだという返答を貰ってしまうと、何やら気恥ずかしさばかりが増した。
「…やめておく」
大きな手のひらで空目の目元を覆って、村神は返した。
空目の視野を覆って何の意味があるのか自分でもよくわからなかったが、村神はとにかくそうした。
「そうか」
何ということもなく、空目も返す。
気まずくなった気がして、村神は立ち上がった。そしてはみ出たシャツをズボンに押し込む。
「俺は学校行く、けど」
「ああ」
椅子に引っかかっているネクタイを取り、首に引っかけながら村神が言うと、そんな村神の背を眺めながら空目は返事をした。
「……あ、れ?」
気が焦ったのか意識が散っていたのか、村神は普段ならやらないような失敗をした。ネクタイが絡んだのだ。
「…くそ、」
解こうと思い端を引っ張ると、締まってしまった。
いつもやっていることなのに何をどう間違えられるのかが自分でもわからなくて、村神は自分に呆れてため息をついた。
「何をしてる」
ネクタイ結びに失敗した村神の背に、空目が冷たく声をかける。
「…」
すぐには振り返らず、村神は視線を彷徨わせた後、それからやっと空目を見た。
「助けろ」
そして横柄に言い放つ。
空目は村神のネクタイを見て、やがて静かに立ち上がった。
「どうしたらこうなる」
呆れているような言葉だが態度には表さず、空目はネクタイの結び目に手を伸ばした。
「……」
返す言葉もないので村神はとりあえず黙る。
自分からはよく見えないので複雑に絡んだような気がしていたが、実際はたいしてそうでもなかったらしく、空目は結び目をいとも簡単にするすると解いた。
それから、改めて結び直す。
「…」
しゅる、とネクタイ同士が擦れる音を聞きながら、村神は空目の頭に手を乗せた。
そんな村神には頓着せずに空目はネクタイを結び終えた。
だがネクタイに添えた手を下ろさずに村神を見据える。
「……」
「…………」
「………………」
妙な沈黙が降りて、村神は次の行動を起こすタイミングを逃していた。
乗せた手で髪を撫でて腕をそのまま下ろすと、空目がネクタイを引いた。
「うわ、」
引かれるままに、村神は空目に顔を近付ける。
「…おまえは発達不良だな」
「は、」
「『口帯の過度の発達』と言葉を合わせてみるとすれば、お前は間違いなく『発達不良』だ」
文字通り目と鼻の先で呟いて、空目は村神に口付けた。
すぐに離れた空目の唇を追うように、今度は村神から口付けた。
唇を合わせたまま村神が空目の頬に手を添え、髪に指を絡めると、空目の指がネクタイから離れていった。
「…どうしてお前はそういうことを言う」
「そういうこと?」
焦点が合わない程顔を近付けたまま問うと、空目は首を傾けた。
「あんまり、煽るな。馬鹿」
「煽ったところで何もしないだろう?」
村神は口許を歪めるように笑むと空目の薄べったい体をソファに押し倒した。そしてたいして表情を変えない空目の額に、唇を寄せてみる。
「だから、それが煽ってるっつーんだ」
「時計を見ろ。学校に行くんじゃなかったか」
呆れる村神に噛み合わない返事をし、空目は村神の首元に指を這わせ、ネクタイに指を引っかけた。そしてそのまま引く。
「おい、こら。解けたぞ」
「そうだな」
平然と返して、空目は再びネクタイを引いた。
ネクタイは村神の襟の下から取り去られ、床に落ちた。
「お前、どこまで本気だ?」
「何の話だ」
「こんなこと、して…、…何を期待してる?」
「何も」
問いかけに短く答える空目を、村神は不意に抱き締めた。恋人を抱擁するというより、抱き枕にでも抱きつくような感じだった。
「…『発達不良』で結構。こんなふうに煽られてそんな気になるなんて、俺には、ちょっとな」
「お前が行動を起こさないとわかっていて発する言葉が『煽り』と呼べるか?」
「受け取る側の問題だろ?」
「だがお前は先程から俺の意図ばかり気にしているだろう」
「…」
なんて不毛な会話だ、と村神は思った。不毛で、無益だ。
空目の服の首元を指で引いて、村神はそこへ口付けた。
空目はやはり抵抗などせずに目を細めただけだった。
軽く歯を立ててみると、空目の薄い肌は簡単に赤い痕を残した。
「…吸血鬼さえ高等か」
「え?」
空目の呟きにどういった意味が包括されていたのかわからず、村神は聞き返していた。
指で首元の痕をなぞりながら、空目は答える。
「吸血鬼ですらお前にはやはり高等だった」
「…俺は犬で充分ってか?」
「そういうことだ」
どうも挑発にしか聞こえない言葉を吐いて、空目は村神に口付け、ゆっくりと首に腕を回した。
自分が吸血鬼云々より、村神には空目がメフィストフェレスのように見えていた。
そうだとすれば、村神は吸血鬼でなくファウストになる。
人間であるぶんそちらのほうがいい、と思いながら、村神は目の前のメフィストの背に腕を回した。




















END





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なんか久しぶりに書いたら空目も村神もなに考えてんのか全くわからなかった…。死
一時遠のいていたせいで完璧にアウトサイドの人間になってしまいました。
またじわじわ親しくなるところからいかねばならんようです。

参考:『オカルティズムへの招待』




2007.3.24