中学生の自分は今の自分よりもちろん知識の量は少なくて、それは空目にも同じことが云えた筈だ。
毎日のらりくらりやっている自分と違い空目は日々学んでいるので、量には歴然とした差があるのだろうが、どちらにせよあの頃は無知だった。
恐怖とは無知からやってくるものだということは、最近わかってきた。
だがそれは多分、昔より確かに賢くなった自分がいるからに他ならなかった。
















*  むせかえるほどの  *
















かつて自分は中学生だった。
空目も中学生だった。
そして共に、無知だった。
異界に関して感覚として感じ取ったことは、失踪事件以来空目はないようだった。
はっきりそうは云わなかったが、それぐらいは村神にも言動から類推できた。
















「えぇと、そろそろ帰んねェと」
椅子にほったらかしていた上着を持ち上げて、村神は時計を見た。
空目は何も反応せず伏し目がちにドアのほうを眺めていた。無視しているのではなく、全く聞こえていないように見えた。
伏せた目がせわしなく揺れている。まばたきも少しばかり多いだろうか。
ソファに沈んだ細い体が、いやに小さく見えた。
「…おい。どうした」
ずかずかと近寄って肩を掴むと、空目ははっとして村神を見上げた。
「何、か…云ったか?」
ぎこちなく空目は問い掛けてくる。
「どうかしたのか。熱でもあるか?」
云って額に手を当てると、空目はその手を掴んだ。
「…何でもない」
そう云いながら、村神の手をしっかり握って離さなかった。
どうしたんだろうと、ただ思った。
「大丈夫か?」
「……」
問い掛けながら隣に座ったが、空目はまた戸のほうを向いてぼんやりしていた。
近くで見てわかったが、もとからそんなに良いわけでもない顔色が、さらに良くなくなっていた。
心配になって、村神は上着を置いてまだしばらく居座ることを決めた。
もう7時をまわっていたが、空目の家へ行くということは親には云ってきていた。まだ中学生なのに、とかもう中学生なんだから、とたまに口煩い親も、空目を理由にすればどうにでもなるだろう。
「…隣の部屋」
「隣の部屋?」
「ああ。…見てきてくれないか」
控えめに視線を寄越しながら、空目が云った。口調が弱々し過ぎる。
「わかった」
短く返事をすると、村神はぱっと立ち上がった。
「窓が開いてたら、閉めてくれ」
ドアを開けた村神に、空目はそう付け足す。
「…わかった」
どういうことだろうと思いながらも、村神はとりあえず頷いた。
廊下に出て、まず一番に感じたのは寒さだった。うすら寒くて、上着がほしくなった。これは上着無しでは長い時間いられないだろうと思った。
とりあえずさっさと隣の部屋を見に行こう、と村神は数歩踏み出す。
ドアのノブに手をかけ、ゆっくり開けると、さらに酷い寒さが村神を包んだ。
寒さというより、寒気と云ったほうが近いだろうか。
体の芯まで一気に凍てつくような寒気がした。
とにかく寒い。
「…」
窓が開いていて、カーテンがふわふわとなびいていた。
この寒さは窓が開いていたせいなのだろうかと考えた。
それにしても寒すぎる。異常だ。
何はともあれ、窓を閉めようと村神は部屋へ踏み込んだ。
部屋を突っ切ると、冷気が体に纏わり付いてくる。
窓を閉め、カーテンも閉じ、電気を消してから部屋を出た。後ろ手にドアを閉めながら、村神はおさまった寒気のことを少し考えた。
寒気などと云うのには大袈裟だったのかと。
「閉めてきたぞ、窓」
もとの部屋に戻り空目にそう告げたが、空目の表情は変わらなかった。
もとから表情をあまり浮かべない奴だが、それにしても起伏が平坦過ぎる。しかも沈んだままで浮上してこないから、村神は余計心配だった。
ゆっくりと、空目が顔を上げた。
「隣の部屋を見てきてくれないか」
「…………は?」
何を云っているのかわからなくて、村神は思わず訊き返してしまった。
空目の表情はやはり揺るがない。
「なんだよ…お前、」
「…」
それきり空目は口を閉ざした。視線すら村神へ向けない。頑として村神へ視線を向けないようにしているようにも見える。
渋々ドアを開き、廊下に出た。
「………!」
隣の部屋のドアが、開いていた。隙間から明かりも漏れている。
「おい、空目…!」
ソファに身を沈め、空目は自分の唇を撫でた。村神のほうは決して見ない。
「…っ」
意を決して、村神は隣の部屋へと向かった。
確かに先程ドアは閉めた筈だ。
電気も消した。
うっすら開いていたドアを勢いよく、大きく開け放つと、冷たい空気が一気に廊下へ流れ出してきた。
明かりが煌々と照っている部屋に視線を巡らし、村神は目を見開いた。
窓が、開いていた。
カーテンがうるさいくらいばさばさとなびいている。
冷気はそこからなだれ込んで来ている。村神は根拠もなくそう確信した。
一秒でも長くこの場にはいたくない、と思った。
がたん、と背後から音がして、村神は飛び上がりそうなほど驚いた。だが振り返る勇気もなく、乱暴に窓を閉めると、きちんと電気も消してドアも閉め、周りを見ないようにしながらそのままもとの部屋に駆け込む。
「…ッ、おい、」
「……」
「なんだ、あれは」
「…………」
「なんの冗談だ?」
「………………」
空目は青白い顔をしたまま微動だにしなかった。
その空目の様子に更に不安を煽られて、村神は胸を焼いた。
「…帰ったほうがいいな、お前は」
微かに身じろいで、空目は言葉を捻り出す。
「何云って、」
「帰れ」
出来れば今すぐこの場から逃げ出したかったが、そんな風に云われては素直に従う気にもなれなかった。
それに、もしここを出るなら空目も連れていきたかった。
明らかにここは何かがおかしかった。よく見知ったどころか、まるで知らない場所のように思えた。
そんなところに空目を置いていけるわけがなかった。
「…うちに来い」
それらが全て自分の気のせいかもしれないが、それでもよかった。
腕を掴むと、空目の肩がびくりと震えた。過剰過ぎるぐらいの反応に、逆に村神が驚いてしまった。
「村神、」
村神の手を振りほどこうとする弱々しい腕が微かに震えているのを感じて、村神は絶対に手を離してはならないと感じた。
「…お前独りで帰れ。俺は…平気だ」
「そんなわけあるか。…何なんだ。何が起こってんだよ!」
空目の前に膝をつくと、顔を下から覗き込んだ。手は絶対に離さないようにして。
「…」
「なァ…空目、」
「…香りが、」
「え?」
村神の肩口に額を乗せて、空目はぼそぼそと続ける。
「香りが…する、」
「何の香りだよ。俺には何も香りなんか…」
「…この世のものじゃ、ない」
「どういうことだ」
「…多分、すぐに『通り過ぎ』る。だから…平気だ」
力の入っていない声でそんなことを云われても、気持ちはおさまるどころか逆に心をざわつかせることにしかならなかった。
空目の背に腕を回し、薄い体を抱き締めてみるが、震えは止まらなかった。
「…待っていた、筈なんだが」
「お前、何云って…」
「……待っていた、と云った」
聞いたことを信じたくなくて、村神は思わず聞き返してしまった。
空目はそんなことに構わず、続ける。
「俺は異界へ行って、帰って来た。それは知っているだろう?そして俺はまた向こう側へ行きたいと…、切望している」
「どうしても?」
「…どうしても」
「…」
「だがまだ駄目かもしれない」
「…恐怖が好奇に勝っているから?」
空目が顔を上げて、頷いた。
村神は、すぐ近くにある顔を眺めて、まだ血色の良くないその頬を撫でた。
「こんな人間らしい部分がきちんと残っていたなんて、」
自嘲のように呟いて、空目は村神の手に自分の手を重ねる。
「お前はちゃんと人間だよ」
「…」
「…ここに、いろ」
「…村神」
「ここにいろよ」
懇願するように云って、村神は俯いた。
その村神の髪に触れ、顔をうずめる。
そんなことを約束出来ないことがなんとなくわかっているので、余計村神はそれ以上強くは云えなかった。
嘘でも良いからいなくならないと云ってほしかった。
だがそれを云わないから空目なのであり、空目を前面的に信頼してこれたし、一緒にいたいとも思った。
「…隣の部屋もっかい見てくる」
「俺も行く」
「…香りは、」
「まだある」
村神にくっついて空目もふらふらと立ち上がる。
村神が感じている以上の恐怖も、空目はきっと受けている。それを全て感じているかどうかは別として、受けていることだけは間違いなかった。
ゆっくりとドアを開き、廊下に出た。
隣の部屋のドアが薄く開いていて、明かりが漏れていた。
やはり先程閉めた筈のドアと、消した筈の電気が、だ。
空目が眉をしかめる。
「どうした」
「…香りが強い」
云いながら、空目は立ち尽くす村神を尻目にすたすたと部屋に消えていった。
「ま、待て」
空目の姿が見えなくなってから、村神はその後を慌てて追った。
そのまま空目がいなくなってしまうような気がした。
「…、」
部屋に飛び込んで、村神は言葉を失った。
窓とカーテンが開いていた。
よりいっそう冷たい空気が流れ込んできていて、歯の根も合わなくなる気がした。
何がかわからないが、心の底からの恐怖をうっすら感じて、肌が粟立った。
そして、空目がいなかった。
「空目…っ」
あたりを見回す。だが見付からなくて、焦った。
「空目!」
「…………村神?」
背後から、自分のすぐ真後ろから声が聞こえて、村神は慌てて振り返った。
「お前どうやってそこに、」
「お前が部屋に入ったときからいた」
云いながら、空目は村神の袖を掴んだ。
空目の気配など微塵も感じなかったが、そんなことより空目が見付かったことに対する安堵のほうが大きかった。
「離すなよ」
空目の手を握って、呟く。
窓を閉めようと歩み寄り、手をかけたところで、また空目は口を開いた。
「…無駄だ」
「何がだ」
空いた手で口元を押さえながら、空目は続ける。
「奴が『通り過ぎ』るまで何をしても同じこと。…奴は、云うなれば、『侵入者』。ただ『通り過ぎ』るだけで害もない」
「奴って誰だ?」
「…便宜上そう呼んでいるだけだ。明確な定義はないから姿があるのかすらわからん」
「…」
そんな言葉を半ば聞き入れず、村神はぴしゃりと窓を閉め、きっちりカーテンも閉めてから、空目へ向き直った。
「窓を閉めれば奴だって入って来れない筈だろ?」
「だがその窓を開けているのが奴だ」
ゆっくりと喋って、空目は窓を指差した。
嫌な予感がして、村神はおそるおそる振り返る。
「…………ほら、」
「…な、」
ふわ、とカーテンがなびいた。
村神の背後、空目の指差す先の窓が、また開いていた。
空目がどこにも行かないよう、繋いだ手に力を込める。
「…痛い、村神、」
「悪い。でも、さ…」
「……いたい、」
「……」
ふ、といきなり電気が消えて、真っ暗になった。
























「ぅ……、」
頭が覚醒し切れず、村神は布団の中でもそもそと手足を折り曲げて丸くなった。
長い緊張からようやくとかれたような妙な倦怠感があって、体中の筋肉が強張っていた。
嫌な夢を見ていた気がするが、内容は全く覚えていなかった。
「よく寝ていたな」
「…ッ、」
何が起こったのかわからなかったが、反射的に村神は跳び起きた。
きょろきょろと視線だけで部屋を見回し、椅子に黒ずくめの痩躯が腰掛けているのを見付けた。
「…なんでいる」
「本を返しに来た。預けて帰るつもりだったが、」
「ああ…叔父さんか」
最後まで聞かなくてもことの顛末など容易に想像出来て、村神はため息をついた。
どうせ叔父がちょっとあがっていけとでも云って有無を云わさず家の中に押し込んだに違いない。
用もないのに逆らう空目ではないから、今ここでこうして村神の寝起きなんかを眺めていたのだろう。
「……いつから、」
「30分程前」
「…………」
上手く頭が働かず、何を云おうか考えている間に、空目がゆっくりと村神の元へ歩み寄って来た。
「手をどうした」
「…手、だと?」
空目の細い指がそっと村神の手に触れた。
村神は右の拳をかたく握っていた。
それに今初めて気付いて、空目の顔を見た。
「…わ、かんねェ、」
一際強張って上手く動かない手をそっと開くと、掌がじっとり汗ばんでいた。
震える手を空目はそっととった。
「覚えがあるぞ」
「何が、」
「いつだったか、この手でしっかり俺の手を掴んで、離さなかったお前に覚えがあると云った」
そのまま手を口元に持って行き、口付け、村神の目を見た。
「…、忘れたな」
空目の体を引き寄せて、村神は目を閉じた。
寄り掛かるように少し体重をかけると、空目は重たそうに眉をしかめる。
「…ずっとここにいろなんて、もう云わねェよ」
「…」
「の代わり、目の前にいるお前を掴んで離さない。…俺にはそれしか出来ねェ」
眠気が抜けず、目を開けるのがなんとなく辛くて、村神は目を瞑ったままでぼそぼそと喋った。
「…朝っぱらから野暮ってェ。俺はもっかい寝る」
空目を離すと、村神はぱたんと布団の上に倒れた。
繋いだ手は離さないままに、布団を引っ被って寝の体勢に入る。
「…横着という言葉を知ってるか」
握った手を見て、空目が云う。
「……うっせ」
村神はぼそりと呟いて、少し経った後にはもう寝息を立てていた。
ため息をついて、空目は手を伸ばして本を手に取った。
窓から入ってくる多少湿り気を帯びた風が頬をくすぐって、通り過ぎて行く。
昨夜は酷い豪雨で、窓を少しでも開けると雨が吹き込んでくるから閉め切っていた筈だが、その窓が何故開いているのかなど、眠さにおされて気付かなかった。
























END




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中学生ですよ、中学生。ちょうわかりづらい。爆
上手く描きたかったんですが。『指を繋ぐ』以上に長い期間考えて練ってきましたが。
それでも上手く、書けなかった。難しい。
私が本当に書きたかったことが、あんまり伝わらなかっただろうなァと、思います。
もとから少ない自信をホントに無くしそうです。




2006.3.6