「ん」
「ん?」












*  救急箱  *












少し離れた隣から小さく声が聞こえて、村神は顔を上げた。
見ると、空目が指先に血の玉をつけてぼんやりそれを見つめている。
「おい。何してる」
「紙で切った」
「間抜け…」
淀みなく答える空目のほうへ、ティッシュの箱を滑らせた。
箱は空目の指を切ったハードカバーの新書の角に当たって無様な音を立てて鈍く止まった。
「平気か」
「ん、すまんな」
「…」
質問に答えていない返事に一瞬眉根を寄せたが、村神は座っていたパイプ椅子ごとがたがた音を立てて空目に寄ると、その手を掴んだ。
ぽた、と机の上に血が落ちる。
「村か、」
「意外と深いな。…ちょっとここ押さえて、そう、そうやって。ちょっと待ってろ」
傷をちらりと見ると、村神はティッシュを何枚か取ると傷の辺りに押し当て、それを空目に持たせた。
そして、自分の鞄を手繰り寄せる。
「確、か…絆創膏が……、」
呟きながら、中をがさがさ漁る。
「お。運が良い」
口の端を歪めるように笑んで、村神は中から絆創膏と消毒液を引っ張り出した。
「運が良い?」
「おぅ」
腕をまた引っ張られながら大人しくしている空目が、村神の言葉を反芻した。
「叔父さんが俺の鞄よく漁るんだ。で、適当にぽいぽいいろんなもん放り込む訳で、…おい、染みるぞ」
まだ新品同様に見える消毒液を空目の指に垂らし、指を伝って落ちていこうとする分はティッシュで拭った。
「俺もちゃんと出してってるつもりなんだが、今みたいに見逃してるのもあったりとかしてだな」
消毒液が余分にかかった部分をティッシュで丁寧に拭うと、村神は絆創膏をぺたりと貼った。
「でも今日はそれにちょっと感謝だな」
「すまんな」
「ん。慣れてっから。あんましぼんやりしてんなよな」
空目にしては珍しい、と思いながらそう告げると、村神はまた椅子ごと移動して少し離れた。
読んでいた本がそこに置きっぱなしであったし、二人でいるには少し広い部室にわざわざくっついている必要もない。
鞄の中に消毒液と絆創膏を放り込むと、村神は改めて空目を見た。
空目の視線は先程通り新書の文字列の上を滑っており、怪我をした指のことなどもう思考の隅のほうへ追いやられているだろう。
空目の細い指に、血の滲む絆創膏はやたら痛々しく見えた。
これは自分の贔屓目のせいもあると村神は思って、直ぐに視線を外して自分の本を眺めた。
こちらは、指を裂くほど新鮮な向こうの新書とは違って見た目だけならば古書に分類しても充分良さそうなものだった。
これであれば指を裂く元気などないだろう。
紙が少々茶ばんでいて、やたらと薄くてぺらぺらしている。印刷が滲んでいるらしきところもいくつかあり、何より微妙に裁断が合っていない。
字体も文体も少しばかり古臭くて、だがそれがかえって面白い。
村神はそんな本が何となく好きだった。
ストーリーだけでなく、見た目からも印象を得ることが出来るようなそんな本が、小説としてでなはく本というひとつの作品として好きだった。
ページを繰ると、ぺらりと薄っぺらい音がして、古臭い本の匂いが鼻孔を擽った。
これは古本屋で買ったもので、買った当初からこうだった。
家柄が家柄なので親や祖父母、更には曾祖父母やそれ以上の所有していた本が家の蔵書には並んでいた。
それらと共に村神は育ってきたし、空目も重宝しているらしく昔からたまに読みに来ていた。
「…村神、」
「…、ん?」
大分時間が経ったような気がしていた。時計は見ていないから実際どうなのかわからなかったが。
小説に心を没入させていた村神はワンテンポ遅れて返事をし、空目のほうを向いた。
「絆創膏を変えたいんだが」
「ん?」
空目の指を見ると、血が大分滲んできていた。
「思ってたより…かなり深かったんだな」
鞄から絆創膏を出し、村神はまたがたがたと空目に近付いた。
「痛くないのか?」
「少しな」
そっと絆創膏を剥がしてやり、村神はそれを手にくっつかないように丸めて机に放った。
「…ま、もう止まるだろ」
ぺた、と新しい絆創膏を貼付けて、村神はゴミをまとめて丸める。
「あんまり使うな、その指」
「あァ」
本のページを繰る程度なら平気だろうし、何よりそれだってもう片方の手を使えば済むことであるが、念の為村神は云った。
空目は絆創膏の巻き付いた指を暫くぼんやり眺めた後、また読書に戻った。
血が抜け過ぎておかしくなったのではあるまいなと思ったが、この量でおかしくなられたらそれはまた異常だと思い直して村神は静かに元の場所に戻った。
「残り、やるよ。いつかまた怪我したとき使え」
絆創膏は空目の手の届くところに置いた。




















「叔父さん、絆創膏」
「あんだよ、俺は絆創膏じゃねェよ」
「んなこと知ってるよっ。絆創膏くれっつってんの」
「かー可愛くねェガキだなホントによ。おらどこ怪我したんだ。見してみ」
「俺じゃねェよ」
「あ?お前…また恭一か?」
「そうだよ。だからはやく」
「俺が見てやっから連れてこい」
「無理なんだ。…お願いだから、後生だからさ、早くしてくれよ」
「ガキが後生とか云うんじゃねェよ。一生のお願いぐらいにしとけ。で?どこ怪我したって?」
「……頭。こめかみの辺り」
ランドセルを背負ったまま、息せき切って道場に飛び込んで来た村神を、叔父はいつも通り迎えた。
慣れている筈なのだが、甥はいつも血の気の引いたような顔をして、必死に絆創膏やら包帯やらを取りに来る。
村神のこの傾向が顕著になったのは、確か空目が入院するほどの大怪我を負った事件以来のように思う。
あの事件以来、空目の怪我の程度は少し落ちたが、頻度は相変わらずだった。しかもそれさえエスカレートしてしまえば、あっという間にもとの通りに戻ってしまう。現に、今もう戻りつつある。
空目の家に包帯などその手の物を置いておくと、母親に目茶苦茶にされてしまうのだということは、既に検証済みだった。
持ち歩くとまた、小学生では衛生面に差し障る。
今日も村神はランドセルを道場に投げ捨て、救急箱ごと抱えて空目宅へと走った。
「難儀な子らだよな…」
そんな甥の背中を見送って、叔父は呟いた。
















救急箱を抱えとぼとぼと村神が帰ってきたのは、陽の沈む頃だった。
「お帰り」
「…ん」
「どうだったんだ、恭一は」
「別に…」
茫然自失な村神を痛々しく思いながら、叔父は村神を道場に迎え入れた。
「……」
そのまま村神は叔父に背を向け、いそいそと胴着に着替え始めた。
「…俊也」
「…」
着替え終わった村神は、叔父に向き直ってぽつんと正座した。
小学生の割には大分がっしりした体躯だと思って気付かなかったが、目の前にいる甥は、やはりまだ幼い小学生だった。
重たい物を無理に背負い過ぎている、と思った。
「…」
低く這う村神の視線に気付かないようにしながら、叔父は立ち上がった。
「…始めるぞ」
「押忍」
ぽつりと返して、村神も立ち上がる。
「…強くなりたいか、お前」
「うん」
「恭一を守るのか?」
「……」
叔父の懐に飛び込み、村神は拳を繰り出した。
だがその小さな拳はたやすく叔父の掌に受け止められ、逆に動きを封じられてしまった。
「…っ、」
叔父の左手が、村神の腹に目掛けて振り上げられる。
それを身をよじって何とかかわした。
「お前、…今の気持ちを忘れるなよ」
「え?」
体勢を立て直そうと一度身を離した村神に、すかさず飛び掛かる。
「守ると決めたら一生守り抜くんだよ!」
「…、大袈裟だ」
「馬鹿、男はハッタリで生きてくんだよ」
云うと、叔父は村神に足払いをかけた。
それが見事なぐらい上手く入ってしまい、村神は視界が回ったと思ったら、腹ばいに床に押し付けられ、腕を取られてしまった。
「…く、」
どうしていいのかわからない気持ちが、村神の中で渦巻いているのであろうことが、叔父にはなんとなくわかっていた。
空目が助けてくれの一言ぐらい云えば、少しは村神も救われたのだろう。
だがそれもない。
空目は誰の助けも必要とせず、だが村神はそんな空目を誰よりも守りたいと思っているのだ。
村神は元より、自分の感情を他人に伝えることが得意な奴ではないことも、知っている。
小学生の手には余りある重くどろどろと渦巻く感情と、必死に独りで戦ってきたのだろう。
「強くなれ俊也。そんぐらいの協力はしてやっから」
「…うっせ」
村神は唇を噛み締めて、床に鼻を押し付けた。
「…バーカ。泣くんじゃねェよ」
「…っ、」
叔父が村神の頭を小突く。
それから腕を開放して村神の上からどいたが、村神は起き上がることが出来なかった。
「…全くなァ。ガキのくせにいろいろあり過ぎなんだよ。俺のすっからかんさを見習え」
「……うっせェ」
叔父は脳天気にだはは、と笑うと、足で村神をつついた。
涙が止まらなくて、村神は顔を上げられなかった。
俯せで泣いているので、酷く呼吸が苦しい。
「ほれ、起きろ」
「……、だっ」
叔父は容赦なく村神を蹴り飛ばし、転がした。
「あにすんだ、」
「だーかーらァ、声押し殺して泣くのもガキのすることじゃねェんだよ!いや、男のすることじゃねェ。大声上げて泣きやがれ」
「時代錯誤だっつーんだ」
「おう難しい言葉知ってんじゃねーか」
目をごしごしと拭って、村神は跳ね上がるように立ち上がった。
「…おら。かかってこい」
「望むところだ!」
まだ滲む視界を気にしないようにしながら村神は飛び掛かった。
だが叔父の拳が見事に腹に入り、村神の体は無様に吹っ飛んでしまった。




















余計なことまで思い出し過ぎて、村神は何となく嫌な気分になっていた。
自分は小学生から高校生になる今の時分まで少しは成長したような気がしているが、叔父は少しも変わっていないと思った。
「あ、あ、あー!陛下ー!!」
いつの間にか来ていたらしい武巳が、いきなり大きな声を上げた。
驚いて、村神はそちらのほうを見る。
当の空目はただ武巳を見上げている。
「どしたの陛下!指!」
「あァ…本で、切って」
「え、珍しい。痛くない?消毒は?」
空目のその間の抜けた怪我を余計に心配して、武巳は普段村神達になら云わないようなことを空目に云っている。
「過保護過ぎだよあんた、村神じゃあるまいし」
げんなりしながら亜紀が武巳達の前を通り過ぎる。
「だって木戸野ー。陛下がこんな間抜けな怪我するなんて、…あっ、熱とかある?」
「…いや」
「うーん。大丈夫ならいいんだけどさ」
しつこく空目の心配をする武巳を、珍しいもののように村神は眺めた。
その様子に気付いた亜紀が、少し笑う。
「何て顔してんの、あんた」
「…え、」
きょとんとして、村神は亜紀のほうを振り返る。
「あァ、いや・・・うん」
少し笑んで、村神は空目のほうへ視線をやった。
「もう、救急箱抱えて走んなくてもいいんだなァと、思って」
「は?」
何のことだかわからなくて、亜紀は首を傾げる。
武巳も、村神を見た。
「…そうだな」
空目は頷いて、絆創膏の箱を手に取った。
「もう小学生のお前ではないし、俺も昔とは違う。……環境も変わった」
「…ん」
話が一切通じなくて、武巳と亜紀は顔を見合わせた。
だが亜紀はもうどうでも良くなったようで、溜息をひとつつくと、本を開いてそこに視線を落とした。
稜子もいないので武巳はひとり取り残されたような気分になった。
空目は不意に、村神に箱を投げて遣した。
「返しておく」
「え」
「今度また何かあったら、そのときに」
「……ん」
頷いて、村神はその絆創膏を鞄にしまった。
「ねェ、一体何の話?」
不躾は承知で、武巳は村神に訊いた。
「……」
村神は云い淀んで、空目に視線を向けた。
空目は村神の視線を受けて、武巳を見る。
「救急箱の話だ」
「え?」
「……はは、そうだな」
武巳はまだわからなそうな顔をしていたが、話はそのまま打ち切りになってしまった。
村神は少し微笑んで、空目は読書に戻った。




















END




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え、なんていうかしんみりした話書きたかったのに叔父さんのせいでそうはならなかったんですけど。笑
最初はほのぼのしてるだけの生温い話にしようとしてたけどそれも叶わなかった・・・。(駄目子




2006.1.27