「俊也、最近唇荒れてんな」 「…は?」 「ほらこれやるから。そんなんだと彼女に嫌がられるぞ」 「はぁ?」 「何だわかんねぇのか?キスの話だ。ホント鈍い奴だなー。ふられるぞ?」 「いや、ていうかだな、」 「あー照れんなって。ついでに礼もいい。ま、これからはもーちょっといろんなことに気ィ配れな。お前俺に似て素は良いんだからよ」 「ぇ、あ……ちょっと待、」 * 君に潤いを * 自由奔放といえば聞こえが少しは良くなるかもしれなくもないが、村神の叔父はとにかくどこまでもマイペースな人物だった。 しかもそれは、他人を巻き込む形のマイペースではなく、自分一人で突っ走ってしまうだけのものであるので、どうにも他者の意見の入り込む余地があまりにも少な過ぎた。 当然、寡黙が売りの村神がそこへ入っていける筈もなく、いつも云われるままされるままである。 大抵が世話焼きやおせっかいであるが、頼み事もまぁしばしば。 迷惑だと思ったことはないと云えば大嘘になるし、まずそんなことを云おうという気すら起こらない。 それでも、じゃあ嫌いなのかときかれても、それを肯定することも出来ないのである。 いろいろな意味で、村神にとっては実に厄介な人物であった。 「…使えってか?」 渡されたリップを持て余しながら、村神は家を出た。 そろそろ家を出ないと学校に間に合わない時間で、これをどうするかは道中考えれば良いと思ったのだ。 だがどうするかといっても、リップの使い道などひとつしかなくて。 只唇に潤いをもたらすだけの、何の飾り気も洒落っ気もないそれをポケットに押し込むと、村神は唇に手を遣った。 そんなに荒れているのだろうか。 普段から自分の容姿などには気を配らない村神であるので、正直なところ唇の荒れなど、痛くさえなければどうでもよかった。 叔父のいう、キスの相手だって、多分何も気にはしないだろう。 万が一気付いたとしても何も云ってはこないであろうし。 というかまず、唇の荒れとキスとがどう繋がるのかがよくわかっていなかった。 そんなことより村神は、叔父が村神に彼女がいることを前提に話していたことが気にかかった。 昔からあの叔父は、これはこうじゃないかという仮定をいつのまにか、これは確かにこうだったという事実にすり変えてしまっていることがあった。 本人に自覚がある筈もなく、そこを他人が否定してやらないと、叔父はそのままそれを事実だと思い込み続ける。 面倒なので村神がスルーし続けてきたことが仇となったようで、叔父は村神に彼女がいると思い込み、下世話な話までし出したということらしかった。 ここまできて否定するのは更に面倒だし、それに彼女ではないが恋人なら、いる。 だからやはりこのまま放っておこう、と村神は思った。 「…あ、おはよー村神クン」 「…あぁ」 おはよう、と挨拶を交わす時間はとうに過ぎていた。 結局村神はこの日朝のショートホームルームが始まるぎりぎりに学校に着き、部室の方へは顔を出せなかった。 それから今の4限目までは文芸部の誰とも出会うことはなかった。 そして今、部室へ来てみればいつものメンバーが勢揃いしていて。 その日初めて会ったときの挨拶は、そのときがたとえ昼を大いに回っていようともおはようで、その他の挨拶といえば後はサヨナラとかイタダキマスだとかしかないのが学校生活というものである。 従って、時間と挨拶を気にする者など殆どいないに等しかった。 「今日の朝はどーしたんだ?」 武巳がきく。 「…ちょっと、叔父さんに引き止められてたら出るのが遅くなった」 「ふぅん?」 自分が少し寝坊して、その上に叔父の話が加わった、といったほうが本当は正しいのだが、割合的に寝坊の方が原因の多くを占めていたので、あえて云わないでおいた。 「叔父さんて、あの」 「…あぁ、あの叔父さんだ」 亜紀と村神の間で行われた意味深な会話の意を汲み取れず、武巳と稜子は顔を見合わせて首を傾げていた。 亜紀は村神の叔父と顔をあわせたことがあった。 村神としてはあの叔父はとても自慢出来たものではないと思っているので、それが少し負い目のようになっていた。 「どんな話ー?」 こんなやり取りが目の前で交わされてしまっては、何だか気になるだろう、というオーラを纏った武巳がきいた。 稜子もどうやら同調しているらしく、武巳と同じような目で村神を見ていた。 「…大した話じゃ、ない」 無意識にポケットの上に手を遣りながら、村神の視線がやっと空目を捉らえた。 だがそれらが交錯することはなかった。 「……」 朝の叔父の言葉と、それを思い出させるこの話題のせいで、村神は空目に触れたいと思った。 欲求や願望などではなく、只単純に思っただけであるが。 「…空目」 特に用もないが、名前を呼びながら空目の隣に座った。 空目が顔を上げ、無感動な瞳を村神に向ける。 「……」 「…」 続ける言葉が見当たらず黙った村神を気にした様子もなく、空目はまた本に目を落とした。 「な、今日皆5限どーすんの?」 武巳が皆を見回しながら云った。 「私授業ある」 「私も。でも単位はもう充分に足りてるしどうしようか考えてる」 稜子に続いて亜紀も云う。 武巳はそのまま視線を村神達に遣った。 「俺はねー単位全然足りてるけど出るつもり。最近内容ややこしくなってきたからあんまついてけなくてさー?」 「俺は…、」 村神は少し云い淀んだ。 「…ないな」 少しして、答えると武巳は空目へと視線をずらした。 「あるが、出ない」 簡潔な答えだった。 だが内容は褒められたものではない。 「でもお前、5限は生物だろ。単位落とすんじゃないのか」 「構わん。平気だ」 村神が云ってみると、やはりかなりあっさりした答えが返ってくる。 単位を落としそうだというのにこの余裕っぷりは何だろうと武巳は思い、只々感服していた。 これは別に落としても平気だと云っているのではなく、落とすことなど有り得ないから平気だと云っているようにしか一同には聞こえていなかった。 実際そうなのだろう。 空目とはそういう人物だ、と武巳は無意味に再確認していた。 「…じゃ、私はちゃんと授業出ようかなー…」 「それが賢明だろ。部室にもいらんないしな」 亜紀が呟くように云うと、武巳は笑って返した。 何故部室にいられないのかなど、誰もきかない。 暫く談笑を続けた後、一同は早めに食堂へ向かうことにした。 部室にいてもすることがなくなり、たいした期待もないのだが、食堂へ話題を探しに行ったのだ。 後片付けだのでのんびりしていると、村神と空目だけが部室に取り残された。 あやめがいないところを見ると、どうやら稜子らに連れていかれたらしかった。 「…空目、」 ついでに武巳らが放り出した雑誌を片付け、空目が堆く積み上げた本を棚に戻し、 なんやかんややっていたのだが、ついにすることがなくなって、また空目の隣に座った。 空目からは、食堂へ移動しようという気配がまるで感じられなかった。 特にこの本の続きが気になるとかいう訳でもないだろうことは村神もわかっていた。 その本は、大分前にだが空目から借りたことがあったのだ。 空目が読んだかどうかの確認などしたことはなかったが、普通自分でまだ読んでいない本は人には貸さない。 名前を呼ばれ、緩慢な動作で顔を上げた空目に、村神は口付けた。 「……、」 はっとして、村神は唇を離す。 口付けたとき、痛みという程ではないが、それに近いものが走った。 「…お前、」 「ん?」 朝叔父が云っていた意味がわかった気がした。 「唇、荒れてる」 「…」 それが何だという表情をされて、村神は苦笑した。 きっと朝自分も似たような表情をしていたに違いない。 村神はポケットからリップを出した。 「…珍しいものを持っているな」 「そうか?」 「お前にしては、だ」 確かに、と思った。 世間一般的にリップクリームなど珍しさのかけらもないが、村神が持っているとなると状況は変わった。 亜紀に、似合わないと一蹴されても少しもおかしくない。 「目ェ、瞑れ」 村神が云うと、空目は大人しく従い、目を閉じた。 その空目の顎に手を添え、村神はもう片方の人差し指の腹にリップクリームを擦り付け、その指を空目の唇に運んだ。 目を瞑る必要性が全く感じられないことこの上なく、道理に合わないことはまずしないといわんばかりの空目はあっさり目を開いた。 「……」 目が合って、村神は固まった。 空目の唇が、何か云おうと薄く開いた。 「…村神、」 「嫌か?」 言葉を遮って、村神はまた唇に目を落とした。 それは照れ隠しに近かった。 「…」 「…いや」 別に平気だ、という意味で一言。 そのまま黙って村神はリップを塗った。 「…叔父さんに朝渡されたんだよ、これ」 「…」 「俺が使えってさ。唇荒れたら……ん、まぁいろいろあるとかないとか」 持たない間を持たせようと、村神は何かを喋っていようと決めた。 空目相手の一人喋りは、面白いことに慣れている。 「…」 だがリップだってすぐに塗り終わり、再び妙な空気になる。 村神は、変に意識してしまう自分を罵った。 話題をふったのも自分だし、アクションを起こしたのも勿論自分である。 だがけしかけたのは叔父だ。 叔父にそのつもりはなかっただろうが、村神はこれが自分だけの情動だとは思いたくなかった。 要は、責任転嫁をしたかったのだ。 そう、これは全て、朝自分にリップクリームなど渡した叔父が悪い、と。 唇へと意識がいくのは仕方のないことだと思いたかった。 「空目、」 切羽詰まったように呼ぶと、村神は性急に空目の唇に自分のそれを押し付けた。 長く口付けて、村神はそっと唇を離した。 空目の薄く開いた口から、ひゅ、と酸素が取り込まれていくのを聞いた気がした。 それからもう一度唇を合わせた。 今度は顔を傾けて、深く。 「…んッ、」 どちらのものかもかわらない声がしたのを何だか遠くに聞きながら、村神は空目を後ろの壁に押し付けた。 だが壁だと何の気無しに思っていたそれは窓で、何だか痛い音がした。 今更だが空目の後頭部を手で支え、空いた手で指を絡めた。 空目は抵抗しなかった。 たまに苦しそうに眉根を寄せたり身じろいだりしたが、嫌だというそぶりはなかった。 それは村神が勝手に思い込んでいるだけかもしれなかったが。 それでも村神は空目を暫く開放せず、何度も顔の角度を変え執拗に舌の動きを追った。 「ん、ん…ッ、……く」 空目の手が、村神の服を掴んだ。 合わせた唇の隙間から、熱い吐息が洩れる。 心拍が走り出して行くような感覚を覚えて、村神は情緒に全てを任せられたらどんなに楽だろうと思った。 空目が欲するものは、いつも自分とは程遠かった。 だから今その対象が自分に向いていると思ったら、堪らなかった。 それは自意識過剰じゃないかだとかは、意識的に思考の外に追い出していた。 だがここは抑えなければならない、と思った。 軽蔑されたくなかった。 空目が自分に対してそんなことはしないと感覚的にわかっていても、もしかしたら、と考えることが嫌だった。 臆病だと、思う。 だがこのまま上手くやっていく為にも、村神は臆病でいなければならなかった。 そんな柔な関係だとは思っていなかったが、それぐらい今のスタンスも、空目も大切にしたかった。 ややあって口内をも味わい尽くすと、どちらからともなく離れた。 多分村神からだろう、とそれは自分でも何となく自覚はあったようだ。 暫く空目は村神の服を掴んだまま肩に額を乗せ、肩で息をしていた。 その空目の髪を撫でながら、村神は気を落ち着ける。 これ以上やりたいままにやってしまうと、非常にまずいのである。 学校で事に及んだり出来る程自分に度胸はない筈だと云い聞かせて、村神は深呼吸した。 そうして口元を拭ったときに、先程空目に塗ってやったリップが多少自分に移っていることに気がついた。 そう気になる程でもないがひび割れていた唇に、それは染みた。 「…、」 何故だか急に気恥ずかしくなって、村神は空目をぎゅっと抱きしめた。 顔を見られたくなかった。 赤い顔をしているかもしれない、と思って。 抱き締められながら、空目は村神の曲がったネクタイを直した。 いつから曲がっていたのかなんてわからなかった。 空目も今気付いて直したのかもしれなかった。 「…空目、」 お互いに落ち着いて、ゆっりと体を離すと村神がまたゆっくりと呼んだ。 空目の視線が村神の動作を追う。 「取れちまったろ。また塗ってやるから目閉じろ」 「必要がない」 「ん?」 伸びてきた手に、制止するように自分の手を添えると空目は静かに云い放った。 「…目を瞑る必要を感じない、と云った」 「あぁ、そーいう…」 村神は苦笑した。 空目が手を離す。 「目開いてたら照れんだろ」 村神が云ったら。 「今更か」 あっさりと云い切られ、村神はやはり苦笑するしかなかった。 END **************** 事に及ぶ勇気を村神に誰か与えてあげて下さい。大爆 だって色っぽい陛下とか書けな……ッッ 笑 2005.8.13 |