ソファの上に腰掛けていただけで何故か無性に悲しくなって、ハリーは自分の目が涙で満たされていくのを感じた。
「ポッター」
思いも寄らぬ程近くから声をかけられ、ハリーは驚いて目を瞬いた。その拍子に涙がぽろぽろと零れ、頬を伝って落ちていった。
名を呼んだ人物はソファに座るハリーの前に膝をつき、目を伏せたハリーの顔を優しく覗き込んだ。
「…ハリー」
困ったようなその声にハリーも戸惑って、睫毛を震わせた。
涙はもう止まることはないのではないかとさえ思った。




















*  I am not the man I was when you knew me first.  *




















心臓が早鐘を打っていた。
そして何故にか目が潤んでいる。
「おおい。ハリー?」
起き上がることが出来ずにぐずぐずしていたハリーの顔を、突然ロンが覗き込んだ。
見慣れた赤毛に、ハリーはやっと現実へと引っ張って来てもらえたような気分になる。
「…ロン。おはよ」
泣いていると思われそうな目元をぐいと拭って、ハリーは起き上がった。
「おはよう。大丈夫?気分でも悪いの?」
「大丈夫。夢見が悪かっただけだから」
もそもそとベットから這い出て、ハリーはロンに笑ってみせた。
「ふゥん?どんな夢さ」
「…」
何気ないロンの質問に、ハリーは黙る。どんな夢だったか、と思い起こすにはしばし考え込まなければならなかった。
「…ま、とにかく悪い夢だったんだな」
もしやこんな軽いノリで訊いてはならないような悪い夢だったのでは、などと思ったらしいロンは、軽く話題を終わらせ、背を向けてネクタイを結び始めた。
「悪い夢…ある意味では悪い夢だなあ。ロンなら死んだほうがましって言うかも」
ぼんやりした調子で言って、ハリーはくすりと笑った。
ロンが妙な顔をして振り返る。
「はあ?僕なら、死んだほうがまし?」
「絶対言う。絶対」
夢の中に居るときは、相手が誰なのかわからなかった。
泣いている自分に優しい声をかけ、慰めようとしてくれた、相手。
わからなかったことが不思議なぐらいだ、とハリーは思う。
あの声に、あの姿に、あの顔に。忘れようがない。良い意味でも悪い意味でも。
「スネイプ」
「は?」
「スネイプ先生が夢の中に出て来た」
「うわァ。そりゃ悪夢だ。死にたくなるようなことをされたっていうのは……、聞かないでおくよ。僕の夢にも出たら嫌だし」
「そうだね」
あんなに優しいスネイプが出てくる夢を『悪い夢』と呼ばず何と呼ぼうとハリーは思って、笑った。
















昼食後、次の教室へ行こうとハリーはとろとろ歩いていた。ロンとハーマイオニーも一緒だ。
「ねェちょっと、ハーマイオニー?さっきから君の鞄がぶつかって痛いんだけど?」
「ああ、ごめんなさい。でもそれならもうちょっとそっちを歩けばいいのに」
「僕は避けてるつもりだよ。でも君が寄ってくるんだろ?相当重いみたいだね、その鞄。鞄に振り回されてるよ、君」
「授業でより多くを学ぶには参考書も必要だわ。私は貴方の頭みたいに空っぽじゃいられないの。頭も鞄も」
ハリーより半歩後ろで目くじらを立て合っている二人の小喧嘩をぼんやり聞きながら、ハリーは自分の鞄に手を当てた。ロンと殆ど差のない、軽い鞄だ。
だとしたら自分の頭も空っぽか、と思ったら少し笑えた。
暫くそんな二人のやり取りを聞きながら歩いていくと、通路の向こう側からこちらへ向かってくる人影が見えた。
黒いローブに、不健康そうな肌の色、そして無駄な程に威圧感を呈しながら闊歩する、その姿。
「…あ、」
「…あいたッ」
「きゃっ」
ハリーが急に立ち止まると、ロンはハリーの左肩に、ハーマイオニーは右肩に衝突して、ハリーは前につんのめった。
「ぅわ、」
そのハリーの肩をロンは掴み、ハーマイオニーは右腕に半ば抱き着くように、腕を絡ませた。
「どうしたんだよハリー」
「急に立ち止まるんだから。ああびっくりした」
「あはは…、ごめん」
三人で団子になったままで言ってから、ロンとハーマイオニーはハリーの視線の先を追って前を見た。
「げ」
「スネイプ先生じゃない。…何か疚しいことでもしたの?」
「ああ、うん、えーと…」
ハリーの見た夢のことを知らないハーマイオニーは、あからさまに疑うような目でハリーを眺め回した。
それに端切れの悪い言葉を返し、ハリーは苦笑した。その隣でロンも吹き出している。
規則正しく響く足音がどんどん近付いてきて、そしてすれ違う瞬間、ハリーはスネイプと目が合った。
「…」
「……」
目を離したのは、ハリーのほうが先だった。その瞬間にハリーへの興味を失ったかのようにスネイプも目を離し、ハリーが再度スネイプを見たときには、視線は交錯しなかった。
「…心臓止まるかと思った」
ハリーとスネイプが睨み合っているように見えていたロンは、スネイプが角を曲がり、ローブの端さえ見えなくなってから大きく息をついた。
「だから、何したのよ?」
ハリーとロンを訝って、ハーマイオニーは眉根にしわを寄せた。
















地下の研究室の戸がそっと開いて、スネイプはそちらを振り返った。
「こんばんは。来ちゃいました」
いきなりですみません、と付け足しながら、ハリーは頭から被った透明マントを取って、近くの椅子にそれを掛けた。
「…ああ」
たいしたリアクションもなく、スネイプは短く返事をして、手元にあった羊皮紙をまとめ始めた。
「あぁあ。すみません」
「?」
「お仕事の途中だったんですか?やめちゃうの?」
「ああ…、気にするな」
言いながらスネイプは羊皮紙をふたつの束にしてまとめ、インクなどを机の端に寄せた。
「…えぇと。ごめんなさい」
「句切りがついたところだ。安心したまえ。お前のためではない」
「…」
角のある言い方に喜べばいいのか反抗すればいいのかわからなくなって、ハリーは複雑な表情で黙った。
何の話題を持ち出したらいいかわからなくて、ハリーは部屋を見渡した。
ふと机の上に積んである本が目に留まって、ハリーは机に歩み寄る。
「…何だ」
「化学、ですか?」
「…ああ、」
一番上に乗っている本を手に取って言ってみると、ソファに腰掛けたスネイプからは、ひどく大儀そうな返事受け取ってしまった。
ハリーは構わず本を開き、ページを繰った。
「何で化学なんか?化学ってマグルの世界の学問、ですよね?魔法薬学にも必要あるんですか?」
「必要性は、ない。だが、知っておくべきことも少なくはない」
「…ふゥん?」
そのまま本を持ってスネイプの隣に座って、ハリーはまた本を開いた。
「…わけわかんないですよ」
「だろうな」
「ああぁっ、馬鹿にしてます!?」
「…」
何も返さず、スネイプはハリーから視線を外した。
「…まあいいですけど。じゃあ、必要性がなくてなんでこんなの見てるんですか」
ハリーの問いに少しだけ逡巡して、スネイプは重々しく口を開いた。
「…マグルは目に見えないものは信じない代わりに、目に見えるものに対しては執念と言っても足りない程の労力をかけている。その成果のうちひとつが、これだ」
「化学、ですか?」
「ああ」
ふゥん、と気の無いように聞こえる返事をして、ハリーは本のページをぱらぱらめくった。
「薬学は人体に関わる。学んでおいて悪いこともあるまい」
「…でも難しい」
高分子化合物のページを開き、スクロースだとかラクトースとかいうものの構造式を眺め、ハリーは呟く。
「難しいことが、知識を得ることを諦める理由にはならんだろう」
「あはは…、耳が痛いです」
苦笑して、ハリーは顔を上げた。
「あ、でもですね」
「…」
「マグルは確かに魔法は信じないかもしれないですけど、夢は信じます」
「…何が言いたい?」
「夢も、見えているようで見えていない、形のないものだと思います。でも、信じる。特別怖い夢だったり楽しい夢だったりすると、夢がその日一日を左右します」
懸命に説明するハリーを眺めながら、スネイプは眉値にしわを寄せた。これだけ聞いてもまだ何が言いたいかよくわからない。
「…僕。今日、先生の夢を見たんですよ」
言いたかったのはこれかと思うと、スネイプは急に気が抜けた思いがした。どうせ授業で物凄い点を引かれただとか、酷いことを言われただとか、無視されたとかそんなところだろうと思う。
どんな夢だった、などとわざわざ訊いてやる気になどならなかった。
だが勝手に話し出すのなら別だ。聞きたくない、と制するのも億劫である。
「先生、すごく優しかったですよ。物凄い悪夢。詳しくは秘密ですけど」
半ば支離滅裂なことを言うハリーから視線を外すと、スネイプはハリーの手からするりと本を取り返した。
「…話をふったのはお前だというのに、それでは訳がわからんだろう」
「え。じゃあ聞きたいんですか。僕の夢の中で先生がどういう風に優しかったか」
急に満面の笑みを浮かべ始めたハリーを、不快そうに見える表情で一瞥して、スネイプは静かに口を開いた。
「行動に一貫性が見られない、と言っているのだ」
「そ、そんなの今に始まったことじゃありません」
「…開き直ってどうする」
自然に寄った眉間のしわを指でなぞって、スネイプは大仰に息を吐いた。
その様子を見たハリーも、眉根を寄せる。
「…すみません」
「謝る必要も無い」
冷たく響く口調で言って、スネイプは本を手に立ち上がった。そのまま部屋の隅の書架へ向かい、持っていた本を戻して、別の本を数冊手に取った。
「…せんせ、」
怒らせただろうか、と思ってハリーは、書架へ向かう背に、小さく呼び掛けた。
だが聞こえなかったのか無視されたのか、男は返事をしない。
「…せんせい」
少し泣き声になって、自分の女々しさに嫌気がさした。そうしたら、視界まで滲んだ。
スネイプが静かに振り返り、少しだけぎょっとした表情になって、だがすぐに平静を保とうという心理が働いたらしく、平生と変わらぬ表情に戻った。
「…どうした」
一応、訊いた。
ハリーは眼鏡を外し、目をごしごしと擦って、返す。
「め、目にごみが」
わかりやすい嘘をついたが、スネイプはそれ以上言及せずに、持っていた本を机に積んだ。
「睫毛でも、入ったのかな…」
空々しい言葉を吐くハリーは、スネイプが近寄ってくる気配を感じて、顔を伏せた。
だが不意に手首を捕まれ、驚いて顔を上げる。
「あまり擦るな」
半ば命令口調でそう言われ、ハリーは勢いで頷いた。遅れて、返事もする。
「…は、はいっ。もう、大丈夫だから、擦りません」
言いながら、ハリーは気付いた。
ソファに座る自分。その自分の前に膝をつくスネイプ。
夢の場面にそっくりだ。
ただ違うのは、やはりスネイプは優しくないということだろう。
「せ、せんせい。先生」
「…何だ」
「……目に見えなかったものが、見えるようになりました」
何を言っているのか理解しかねたスネイプは、目を細めた。
「先生は優しいけど優しくないから先生なんですよね。忘れちゃいけない、大事なこと…」
最後のほうは呟くように言いながら、ハリーはスネイプを見つめて、そして額に口付けた。
「…何だ、先程から」
「ね、先生。やっぱり目に見えるもののほうが大事なときってありますね。だから化学も大事です。ね」
何故だか楽しそうに笑むハリーに、スネイプは思わず剣呑な視線を向けた。




















END




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どうも私がハリーを書くと、10歳児みたくなるような気が…。爆
先生はキャラ違うし。ああどうしたら…。
難しいです。




2006.8.3