「ちょお、。なんやねん、仕事の邪魔しなや」












* 君に会いにやって来たのさ *












「いいじゃん、アリス。ね、ね、今日は来ないの」
「誰が」
「火村さん」
わくわく、とかいう漫画的な擬音を身体から放出していそうな様子で、は有栖川に問い掛けた。
有栖川は盛大に溜息をついて、のいるソファを振り返る。
「来おへん。何や、君は火村に会いたいんか。やったら大学にでも押し掛けたらええやないか。君の家から大学、近いねんし」
「冷たいこと言わないでよ。そこまでして会いに行く用、持ってないの知ってるでしょ?」
「会いたかったから来ました、でええんちゃうん」
「そんなの。アリスじゃないんだから、出来ない」
「・・・・・・」
クッションを抱き締めて、冗談という風でもなく言うの言葉に、有栖川は頬を赤くした。
だがそんな顔を見られないようアリスはパソコンのほうを向いていたから、おそらくは気付かなかっただろう。
「・・・電話貸したるし。来い、とか言えば?」
「アリスが呼んでます、って言ったら飛んで来てくれるよね。ていうかそうだ、アリスが来てって言ってくれたら簡単なんだ」
「阿呆言いな・・・」
はあ、と盛大に溜め息をついて、アリスはちっとも捗らない作業と、締切りまで如何に余裕がないかを考えた。こんな馬鹿に構ってる暇ではないというのに、何故こいつはこんな時期に転がり込んでくるのか。
「・・・本当にかけるよ?」
「かけたらええがな」
投げやりに言って、有栖川はぽちぽちキーを叩く。
だがそんな後押しでもには充分だったようで、早速受話器を持ち上げている。
「はい、番号言って」
「・・・。090・・・」
促されて、有栖川はパソコンの脇にメモしてある火村の携帯の番号を読み上げ始めた。
はそれを人差し指でぽちぽち押している。今の有栖川の原稿の捗り具合と似たペースだった。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
は受話器を両手で握り締めて、火村が出るのを待った。
だがそんなに待つ必要もなく、あっさり相手は出る。
『――どうした、アリス』
声を聞いて、は唾を嚥下した。
『おい、アリス?』
なかなか返事がないのを訝ってか、火村は有栖川の名を繰り返す。
「ご、ごめんなさい」
『・・・あ?誰だ?』
勢いで何故か謝ってしまったに、火村は不機嫌な声で返す。それが余計を慌てさせた。
「すみません、えと、俺、です。です」
『ああ・・・』
思い出したのだろうか、火村は気の抜けた返事をする。
「今、俺、アリスの家にいます。それで、あの、・・・もし用がなかったら、これから来て一緒に飲みませんか?」
『・・・・・・』
「電車で来てくれたら、帰り、俺送って帰りますよ。なんなら迎えに行きましょうか」
『せっかく飲みに誘っといて、お前は飲まないのか?』
「車で来ちゃいましたからね。飲もうってなったの、さっきだし。元々酒弱い人間なんで、雰囲気だけ楽しめれば充分かなあ、と」
『悪いが・・・』
言い難そうに切り返す火村に、の眉根が寄った。
「そ・・・ですよ、ね。急にこんなこと言われても、困りますよね」
『いや、そうじゃないんだ』
「え?」
歯切れ悪く喋る火村に、は首を傾けた。そんな様子を有栖川もいつからか眺めていた。
だがふと何か思い立ったのか、椅子から立ち上がって玄関に向かった。
『・・・もう来てる。車で』
「・・・えッ!?」
一拍遅れてが頓狂な声を上げると、電話の相手は喉の奥で可笑しそうに笑った。恥ずかしさと、火村を笑わせることが出来た嬉しさとで、の頬に朱が走る。
「いらっしゃい」
玄関へ行った有栖川が、そんな暢気なことを言って、誰かを迎え入れる音が聞こえた。それも、受話器からと、受話器を当てていない右耳の両方からだ。
まさか、と思った瞬間には訪問者はもう姿を見せていた。
「ひ・・・」
火村さん、と名を呼ぶつもりが、声が詰まってしまった。
「おいおい、お化けでも見たような顔をしないでくれよ」
「仕方がないやんか。来おへんと思ってたひとがいきなし来てんから」
火村が脱ぎ捨てたジャケットを受け取りながら、有栖川はその後ろでぼそりと呟く。
「来ないなんて言ってないだろ?」
「来るとも言うてへん。来る予定のない人間がいきなり来ても君は驚かんのか?」
「・・・」
ジャケットの胸ポケットに入っていたキャメルとライターを火村に手渡しながら、有栖川は呆れたように返す。
すると不意に火村は有栖川の耳に唇を寄せた。
「・・・お前が来てくれるなら俺はいつでも大歓迎だぜ?」
「阿呆言いな・・・」
頬を僅かに赤くしながら、有栖川は火村の頬を手で挟んで、のほうを向かせた。
が君を待ってたんや。無下に扱ったらあかん」
「あ、アリス・・・っ」
待っていた、とばらされて、の頬も紅潮する。
「ほお。どうしてまた。何か用でも?」
僅かに首を傾けながら、火村はの正面に座って、早速キャメルに火をつけた。
「べ、別に用は・・・」
「・・・」
「・・・・・・な」
慌てるの顔を、火村はじっと眺める。余計慌てた。
「・・・マークX」
「え」
いきなり愛車の名を言われて、は慌てるのを通り越して固まってしまった。
「君の車は、もしかしてマークX?」
「そう、です」
「アリスのブルーバードの隣に停めた?」
「はい」
尋問でもされているような気分になって、はいつの間にか正座に座り直していた。
「怖いで、君。が何したっちゅうねん」
言って、有栖川がキッチンから持ってきた缶ビールを、火村の前に置いた。の前には酎ハイを置く。
「いや、別に怒ってるわけじゃない。ただ、あのどこかで見たことのあるマークX、やけにアリスの車に寄せて停めてあるな、と思っものだから。あんだけ寄ってたらアリス、乗るときは助手席側からじゃないと入れねえな」
「え」
「こら、ッ!君はまたそういう停めかたしたんかっ」
「ごごごごめんアリスっ!!おお俺だって好きでそうしたわけじゃ・・・っ」
本当に怒っているわけでも何でもなく言い放った火村の言葉に反応したのは、有栖川のほうだった。眉尻を吊り上げて、有栖川はに顔をぐいと寄せた。
は引き攣った笑みを浮かべながら、じりじりと後ずさる。
「今度こそこするんとちゃうやろな!つか今日出るときにこすってくんとちゃうで!ウチのブルーバードは君の車と違って老体やねんからな!」
「いやいやいや絶対やんない!絶対こすんないから!!」
完全に気圧されているの目の前から、火村は有栖川の首根っこを引っ掴んで引き剥がした。
「はいはい、そこで終了。俺のベンツ見たら、誰もこすることぐらい苦でもなくなるさ」
「阿呆っ」
猫のように掴まれてしまった有栖川は、顔を赤くして反抗した。
「それにな、アリス。お前の車だって今更ちょっとぐらい削れたって何も変わんねえよ。大変なのはの車じゃねえの。新車だろ」
「や、そんな、新車っていう程新しくは・・・。買ってから2年は経ってますから。しかも新古車で買ったんですよ」
「・・・まだ24だよな?」
「え?」
いきなり出てきた数字が何の数字だかわからなくて、は僅かに頬を染めながら首を傾けた。
「歳」
「ああ。23です」
「・・・」
「ひとまわりちゃうねんで」
何故だか呆れたように言って、有栖川はふうと息を吐き出した。
「23でマークXか。なかなかだな」
「マークXの前はアコードやったな」
「うん。気に入ってたんだけど、事故に巻き込まれて廃車になっちゃったんだよね」
言って、は火村のキャメルをちらりと見てから、ポケットからマルボロを取り出した。箱を開けてみると、あと二本しか入っていない。車にストックはあったような気もするが、はっきりしない。
「でも、そのときちょうど賞が取れて。それ頭金にして、あとは保険とか慰謝料とかで払ったらあっという間にローンも終わっちゃったし。運がよかったのかな。アコード、ほんとに大好きだったけど、今のも充分気に入ってるし」
ふうん、と火村が聞いているのかいないのかよくわからない返事をしながら、ビールのプルタブを開けた。
つられて、も酎ハイのプルタブを押し開けた。
「どうだ、アリス。お前にもそんな運はないのか。ブルーバードとさよならする日は?」
キッチンに向かった有栖川に視線を向けて、火村はからかうような色を交えて少し大きめの声で言った。
「俺はええねん。気に入ってるから。青い鳥」
間違った俳句のような調子で言って、有栖川は枝豆を手にの隣に座る。
それを助教授は鼻で笑った。
「またまた。この間中古車雑誌見て溜め息ついてたじゃねえか。スカイラインか?レクサスか?クラウンか?ん?」
「ティアナと・・・フーガ」
まくし立てられて、有栖川は枝豆を口に入れて、小さく呟いた。
「ほれみろ」
「ほれみろ、ちゃうわ。ちょっとええかな、と思っただけやわ。・・・格好良いやんか、フーガ。後姿とか特に。けど、買う気なんかない」
「有栖川先生は浮気性でいけないな」
「阿呆。やし変えん、言うとるやないか」
きっと火村を睨みつけて、有栖川もビールのプルタブに手をかけた。
ふたりのやりとりを見て、はそっと笑む。
有栖川と知り合ったのは、珀友社の作家同士の交流を図ったパーティーでだった。
そういった集まりは少し苦手なのだが、作家の知り合いなど殆どいなかったので少しぐらい知り合いが出来たらいいなと淡い期待を抱いたのと、担当の編集者に強制的に引っ張られていったのとで、参加することになった。
はミステリは読むのは好きだが書くほうはからっきしで、殆どの作品が、といっても著作はそんなに多くはないのだが、ソフトSFやファンタジーなどを扱っている。恋愛ものだって、機会があれば書く。
高校のときから投稿を続けていたが、運に恵まれたのか20歳になりたての大学2回生の夏に、珀友社がの作品に目を付けてくれた。その作品は生憎賞を取れなかったものの、担当を付けてもらい、その後の作品を育ててくれ、現在のにしてくれた。感謝してもし切れない。
そんながパーティーで担当編集者の姿を探しながらワインを舐めていたところ、目の前に万年筆が転がってきた。
拾い上げて持ち主を探してみるが、何故か近くにはいない。
不審に思って万年筆をじろじろ見てみると、目立たないところに筆記体で名前が彫ってあるのが見えた。
「ヒムラ・・・?」
声に出して呼んで、は首を傾けた。
ヒムラ、なんて作家に覚えがない。編集者の名前かな、と勝手に決めて、もう一度辺りを見渡した。
「あっ!」
声が聞こえた。
「え?」
「あ、ごめんなさい、それ、俺のです」
はっとしてが声のほうを見ると、いつの間にか近くに男がいた。真っ黒の細身のスーツに、薄い灰のシャツ、紅色の細いタイを締めた、なんとなくだが柔らかい雰囲気を放った男だった。よりいくつかだけ年上に見える。
「拾ってくれてありがとうございます。ええと・・・、作家さん、ですか?」
明らかに年下、というより幼くさえ見えるだろう自分に対して、その男は恭しくも敬語で話しかけてきた。それが嫌味に聞こえない辺りが、ひとの良さそうなこの男にこそなせることなのだろう、と思う。
作家か、と問われてはいとあっさり頷ける程作家歴が長くもなく、やや照れながらは頷いた。頬が少し紅潮してしまう。
「あ、はい。・・・です」
「ああ」
心当たりがあったのか、男はにっこり笑んだ。
「知ってるよ。新人作家さんやね。『君に会いに』って作品書いたの、君やんな」
「えっ」
知っている、と言われては更に紅潮してしまった。男がくすくす笑い出す。
「・・・わかるわかる。俺も未だに嬉しいし。よかったね」
よかったね、とは、作家になれてよかったね、なのだろう。初対面の人間に言われたのに、はそれをひどく嬉しく感じた。
「あ、あの、あなたは・・・」
顔が赤いまま、は問うた。恋愛ではないけれど、この人間に一目惚れしてしまったようだ。普段はこんな積極的になれはしないのに、どうしてもこの男とは知り合いになっておきたい、と強く願った。
「俺?有栖川有栖。推理小説書いてます。知ってるかな」
少し照れたように言って、有栖川有栖は名刺を取り出した。
有栖川有栖。勿論知っている。著作を2、3冊程読んだことがある。
慌てて受け取って、も名刺を渡した。
それから徐々に親しくなり、は有栖川を介して火村と出会った。
そして今度こそ、本当に一目惚れした。
誰も寄せ付けない孤高の騎士だと見せかけておいて、気の置けない仲の前ではその牙城が崩れ、とてもひとのいい顔を見せる。
本人はそう思われることを快く思わないだろうが、火村はとても優しい。特に、有栖川を思いやるときの気の遣いかたといったら比ではないのだ。それを気取られないようにしている気配は感じるが、気配だけだ。にでもわかる。
「・・・一本、くれ」
言って、有栖川が火村のキャメルに手を伸ばした。それを咥えたのを見届けてから、火村が火を点けてやる。
「あれ。アリス、吸うんだ」
「知らんかったっけ?」
「こいつはけちくさいもらい煙草しかしない奴なんだ」
何の返答になっているのかよくわからない返答をしながら、火村も新しいキャメルに火を点けた。
も吸おうと思ったが、あと2本しかない。今から車に取りに戻ってもいいが、寒いのであまり動きたくなく、どうしようかな、と考えていると火村がキャメルを差し出した。
「え・・・」
「どうぞ」
「で、でも」
火村のキャメルだってあと2本しかない。もちろんくれるならほしいところだが、もらっていいものかとの指先が迷う。
「大丈夫やで。まだ5箱ぐらい買い置きあるし」
「そんなにあったか?」
「君が何も考えんとほいほい買い込んでここに置いてくからそういうことになるんやないか」
呆れた有栖川が溜め息をつくと、キャメルの箱から一本取り出し、に咥えさせた。そしてライターの火を差し出す。
「あ、自分で点ける」
「やったるって」
「・・・・・・」
言われて、は大人しく煙草の先に火を点けてもらった。
「・・・ありがと」
「なんや、しおらしいやん」
言って、有栖川は笑った。
そんなをちらりと見て、それから有栖川に視線を向けて、火村はビールを呷る。
「・・・こら、火村。何か食え。飲んでばっかりじゃ潰れる。強ないねんから」
こんどは有栖川が火村に視線を向けて、料理の皿を引き寄せた。
「潰れねえよ。・・・まあ多少足に来るかもしれないが・・・」
「何冷静に自分分析してんねん。歩けへんようなる前にやめときや。支えへんで」
つれなく言って、有栖川は酒の入ったコップを火村から遠ざけた。そしてどんどん料理の皿を火村に押し付ける。
そんな姿がなんだか微笑ましくて、はまた少し笑う。すると有栖川と目が合った。
「なんで笑うん」
「や、別に、なんでもな・・・」
「なんでもなくて笑うんかい?」
慌てるに、有栖川はまたも詰め寄る。引いてもどんどん近付いてくる有栖川に、は余計焦った。
「ほらっ、言うてみなさい」
「だから、なんでもないんだってばっ!」
「ふうん?そんなんで信じるとでも?」
「わ、やっ、アリス・・・ッ!?」
ついに部屋の隅にまで追い詰められて逃げ場がなくなっても尚詰め寄ってくる有栖川に手を突っ張って抵抗をしてみるが、有栖川はキスでも出来そうな程に顔を近付けると、疑いも露わな眼差しをぶつけてきた。
「ア、アリス・・・離れようよ。近いよ」
「ええやん。男同士やねんし、襲ったりせえへん」
「いや、そんな心配、してないけど・・・」
男同士なんだから襲わないなどと、よく言ったものだとはこっそり思う。憧れの火村英生を恋人にしておきながら、有栖川の口はそんな恨めしい言葉を発する。
そんな有栖川を、火村は呆れたように眺めながら、有栖川に奪われたビールをいつの間にか取り返してまた飲んでいた。合間にキャメルをふかしている。
ビールを呷ることで動く喉仏に思わず目が行く。
キャメルを挟む、長い指に見蕩れる。
髪を掻き上げる仕草に溜め息が出そうだ。
同じ性を持っているというのにどうしてこれほどまで火村英生は自分を魅了して止まないのか、問いたい。問うて答えがほしい。
「よそみしなや」
この至近距離で余所見なんかしていることにの余裕でも感じたのか、有栖川はの額にでこぴんをかます。
「い・・・ッたぁ!」
「何なん。火村に見蕩れてたんとちゃうやろな?こんな至近距離に俺がおりながら」
「な・・・、それは誰に対するどういうやきもち?」
からかうように言って、は笑った。
体勢は未だにが不利だが、形勢は逆転した。
「火村さんはアリスのだから、俺は見ちゃ駄目ってこと?」
火村に聞こえないように、こっそり呟いた。
途端、有栖川の頬に朱が走る。
「あ・・・っ、あほ!いきなり何言うねんっ」
「あはは、アリス、真っ赤」
何が起こったのかと、火村は尚も呆れてふたりを眺めていたが、不意に立ち上がった。そしてふたりに歩み寄る。
「・・・楽しそうだな」
言って、有栖川の襟首を再び捕まえてから離した。
「ちょ・・・っ、待て、火村っ。苦しい!あかんて言うたやんかさっきっ」
じたばたと喚く有栖川の両脇の下に、火村は今度は左腕を滑り込ませた。有栖川は火村に後ろから抱き込まれるような構図になる。
「離せって!」
「わあわあよく騒ぐな、いい年した人間が。しかも若者の目の前で」
「いい年とか言いなや。君も同い年や!」
「自覚しようぜ、自覚を」
言いながら、火村は空いている右手を使いつつ、左手首にはまっている腕時計を使って時間を見た。
つられて、も時計を見る。
「あ。・・・あ――ッ!」
「はあ?」
時計を見て突然大声を上げたに、有栖川は間の抜けた声を上げた。まだ火村に抱き付かれたままである。
「あ、明日、学校・・・!もう12時だよっ」
「あ。そっか」
有栖川がそうかそうかと頷く背後で、今度は火村がぽかんとした顔をした。
「・・・学生、だったのか?」
「あ。はい。そうなんです。去年大学出て、今年から院生です。院通いながら小説書いてます」
「・・・小説書いてる時間なんかないだろう」
「ないですね」
あはは、とは笑う。だが実際には院生であり小説家でもあるという荒業をやってのけている。
「アリスとは大違いだな。小説書くだけでもいっぱいいっぱいじゃねぇか」
「う、うるさい」
「それで?何の勉強を?」
不良とはいえ一応大学の講師として気になるのか、有栖川を半ば無視して火村はに問いかけた。
「免疫やってます」
「免疫?てっきり文学でもやってるんだと思ったが」
「文学なんて苦手です。中学のときから国語も英語も嫌いでした」
なんか変ですよね、と言って、は笑った。
「小説を読むのは小さい頃から好きでした。洋書だって読むんですよ。けど、それが勉強になると嫌で。数学とか理科が好きなんですね。根っからの理系体質」
「ああ。それはわかる」
有栖川は間の抜けたテンションでに同意した。だがそれが勉強嫌いの子供のように見える、とは思ったが言わなかった。
「学部は?」
「理学部です」
「医学部?」
「り・が・く・ぶ」
有栖川が聞き間違いをすると、火村は嫌みったらしく訂正をする。有栖川があからさまにいやそうな顔をした。
「理学部だから、・・・俺は字書きが仕事に出来てよかったのかも。就職、難しいですからね。院出てたらまだましなんですけど」
「・・・そうだな。理系は畑違いだからよくわからないが、難しいそうだな」
「はい。就職無理学部、とか言われるぐらい難しいです」
そんな冗談を言って、は笑った。火村はそんなに感心でもしているようだ。
「小説書きたいけど、免疫もどうしてもやりたくって、俺。・・・字書いてお金貰えるようになるのがこんなに早く叶うなんて思ってもなかったから、大学卒業するときは本当に迷いました。ほんと、贅沢な悩みなんですけど」
言って、照れたように笑った。
「でも、偉いよ、君は」
「・・・え」
ゆっくりと火村が言葉を返すと、は途端に真っ赤になった。
その横で有栖川のくちがへの字に曲がったのには、火村しか気付かなかったが。
「うちの学生にも見習ってほしいよ。学問を追い求めるその姿勢。それに、自身の幸福をしっかり自覚している。な、アリス?」
「お、俺に話をふるなや」
「や、でも、俺は、ただ好きなだけですから。免疫の勉強が。勉強自体は別にそんなに・・・」
「まず好きにならないと何もないからな」
「・・・」
「・・・・・・」
火村の言葉で、も有栖川も火村の顔を凝視した。
「なんだ、気持ち悪いな。ふたりして同じような顔をして俺を見て。見蕩れるなよ、照れるだろ」
真顔でそんな冗談を言って、火村はキャメルに火を点ける。
「阿呆。絶対阿呆やこいつ、なあ、。こんなん助教授にしとくなんて世も末や」
「なんだ。推理作家に言われたくない」
「人権侵害や!!」
叫んで、有栖川はの背後に隠れた。
「もう嫌やわこいつ・・・」
「じゃあ、俺がもらっていい?」
はこっそり言ったつもりだったが、火村にも聞こえてしまっていた。
の発言と、火村が口の端を吊り上げて嫌な笑みを浮かべたのとで、有栖川は困ったような顔でふたりを交互に見遣った。
「・・・あかん。君にはやらん」
「他のひとならいいの?」
「あかん。誰でもあかん。あれは俺のや」
の背中に張り付いたまま、有栖川はそれだけ呟くと顔を伏せた。
「火村さんを大好きなアリスを見てるのが楽しいよ、俺は。本当に可愛い」
「可愛いとか言いなや。オジサンやで」
「・・・いいな、アリス」
そんなことを呟かれて、自分の家であるというのに居心地の悪さすら感じて、有栖川はふと視線を足元に落とした。そしての腕時計に目が行った。
「ちょ、、時間ええの?」
「う、わ。忘れてたっ」
「もう、不良助教授のくせに火村がそんなこと訊くから!」
「い、いいんだよ、アリス」
ばたばたと慌てて帰り支度を始めたを見つつ、有栖川は火村を責める。火村はを前に返す言葉もないのか、黙って頭を掻いた。
は別の意味でまた慌てる。
「こんな話聞いてもらったの、初めてで。だから嬉しかった、です」
「・・・。大変そうだが、自分で選んだ道だからな。頑張れ、
「はい、ありがとうございます」
「こんなときだけセンセイらしいこと言うてんと、火村!、どうやって帰る?電車?俺もちょっと飲んだけど、駅までなら送るで」
はい、と荷物を手渡し、有栖川は首を傾けた。
「大丈夫。俺、殆ど飲んでないから車で帰れるよ。アリスは火村さんに構うのが忙しくて気付かなかったかもしれないけど」
「あ・・・っ、阿呆言いなや!」
「はいはい」
だが実際に気付かなかったではないか、とがやや勝ち誇ったような視線を向けてみる。有栖川は顔を赤くするだけで反論も出来そうになかった。
「じゃあね、アリス。また来るね。火村さんも。また一緒に飲みましょう」
「仕事立て込んでるときに来るんやないで。いっつもはそういうとき狙ったみたいに来るんやから」
「うん。じゃあ次も、狙う」
「阿呆」
じゃあ、と玄関でが振り返ると、玄関先まで見送りに来た有栖川もじゃあと返し、奥にいた火村も片手を軽く上げて挨拶をした。
「・・・・・・ふう。疲れる」
有栖川は閉めた玄関に寄りかかった。
「そうか?」
いつの間にか有栖川の背後に回っていた火村が、そんな声をかける。
「そうかって、君は・・・」
「いい子じゃないか。勤勉で」
が聞いたら、喜ぶ・・・んかな?」
眉根にしわを寄せて、有栖川は若干疑問に思いつつ首を傾けた。火村はそんな有栖川の眉間のしわに口付けを落とす。
「・・・ん」
「俺はアリスだけ喜ばせることが出来たら充分だが?」
「またそんな気障な・・・」
言いながら火村は、今度は唇に口付けた。そうしながら、有栖川の体の後ろにある鍵を閉めようと、有栖川の体をドアに押し付けつつ手を伸ばした。
だが、鍵に指先が触れた途端、勢いよくドアが開く。
「ごめん、アリス、鍵忘れちゃっ・・・、・・・!?」
「・・・ッ、・・・っ!」
ふたりが反射的に体を離すより早く、口付けを間違いなく見てしまったが硬直した。
顔を真っ赤にして、有栖川は目を見開いた。
だがただひとり冷静に火村だけが、に向き直った。
「鍵?車の鍵か?」
「は・・・はい・・・」
平然と対応する火村に、は糸の切れた操り人形のような調子で頷いた。
奥に消えた火村は、すぐに戻ってくる。
「はい」
「あ、ありがとう・・・ございます」
「気を付けて帰れよ。少しとはいえ、君も飲んでるんだから」
「いや、あの、平気です。酔ってませんから」
まさか今のは酔っ払って見た幻影だとでも思わせるつもりか、と思っては訝りつつ酔っていないことを主張した。
「そうじゃなくて、取り締まりに」
「ああ」
微苦笑した火村の返答に、も笑った。確かに酔ってはいないが、飲んでしまった以上は取締りにはしっかり引っ掛かるであろう。
「気を付けます。・・・ええと。お邪魔してごめんなさい」
ふたりから目を逸らしてそれだけ言うと、は再び戸の向こうに消えた。
「・・・火村!見られたやんかッ!!」
顔を真っ赤にしたまま、有栖川は火村をきっと睨みつけた。
「いいんじゃないのか?だろ?」
「意味わからん!てか、可哀想や!!」
「何がだ?」
本気でわからないのかとぼけているのか、それも不明な表情で火村は首を傾けた。
それはがお前を好きだからだ、とは言えずに有栖川は押し黙った。
「・・・もういい。飲も」
「・・・なんだ。今日はもう飲まないでおくのかと思ってた」
送ったらなあかんようなるかも、って思ってたから、おさえてただけやんか。お前は何も気にせんと阿呆みたいにがばがば飲んでたけどやな」
「阿呆みたいに、か」
くく、と火村は喉の奥で笑う。
「何で笑う」
「・・・いや」
「やな感じや」
言って口をへの字に曲げた有栖川の腰に、さりげなく手を回した。
「・・・触んな」
「おお、怖いな。何気立ててんだ」
「阿呆。全部、お前や」
言って、有栖川は肩越しに火村を振り返った。
「全部、お前のせい」
そして、ふたりはいやにゆっくりと勿体つけた動作で唇を重ねた。




















END




********************
火村はモテてかっこいい、っていゆう話。死




2008.3.3