* よもつひらさか:2 *




















「猪里ー今日は天気も良いしさ、屋上行って飯食おーZeー」
「うん、よかねー」


昼休み。
虎鉄の提案に快く承諾した猪里は、あることを思い出した。
「…あ!」
「どーしたんだYo」
「なんか、委員会のことで渡すもんあるけん、昼んなったら職員室来い、云われてたんやった…」
「そか。んじゃあ先屋上行っとくZe?」
「ごめんな?すぐ行くけんし待っとって!」
云い終わるとすぐ、猪里は速足で教室を出て職員室へ向かった。
「早くこいYoー」
聞こえはしないだろうけれど、その背中に向けて虎鉄は云った。




「あー…もうッ腹立つったら…」
結局委員会の仕事と云っても内容が下らないにも程があり、しかもその教師の口調が癇に障るものだったので、いくら温厚な猪里といえど腹が立っていた。
こちらは昼飯を後回しにしてまで用を聞きに行ってやったというのに。
完璧に委員会の選択をミスしたな、と今更ながら猪里は思った。
「早う屋上行かなー…」
そして虎鉄に少し愚痴を聞いてもらおう。
そう思いながら、猪里は屋上への階段を駆け登った。
特に何も云っていないが、きっと虎鉄は自分の分の弁当の用意も持って行ってくれている筈だ。
「あー…いかん。まだむしゃくしゃしとー」
あの教師の言葉が頭から離れず、猪里はまだ怒りが頭から離れていかなかった。
これは当分機嫌の悪いままかもしれない。
虎鉄に八つ当たりなどしないよう気をつけなければ。
猪里はそんなことをちらりと考えた。
そうこうしているうちに屋上へ着き、猪里は屋上へ出る為の鉄の扉のドアノブに手をかけた。
「…あれ?」
虎鉄の姿はなかった。
虎鉄も何か用事があってどこかへ行ってしまったのだろうか、なんて考えているうちに、どこからか声がした。
多分それは二人分の話し声で、片方は女子、そしてもう片方、これは聞き間違える筈もなく虎鉄のものだった。
猪里は嫌な予感しかしなかった。
また虎鉄は女子を口説いて遊んでいるのだろうか。
「あんの阿保…」
どうやら貯水タンクの裏にいるらしいとわかって、猪里は行ってみることにした。
「……」
大分近付いたが、風向きもあってか猪里には何を話しているのかよくわからなかった。
ならもう少し、と猪里は足音を忍ばせて近寄ってみた。
そうしてやっと二人の姿が見えるところまでやって来て。
猪里は絶句した。
虎鉄とその女子が、あろうことかキスをしていたのだ。
虎鉄は壁に背を預け、その女子は背伸びをし。
まるで恋人のように見える、と思った瞬間、猪里は自分の中で何かがどんどん冷たくなっていくのを感じた。
二人は猪里に気付かない。
「……」
あの人は誰だろう。
虎鉄は前からあの人と付き合っていたのだろうか。
ナンパなんてものではなく、キスをしているではないか。
俺はこれを笑って許せば良いのだろうか。
猪里はいろいろ考えたが、答えが出るような気はしなかった。
ふいに、少女がこちらを向いた。
続けて、虎鉄もこちらに視線を向けて、目を見開いた。
「猪里!」
「…ごめん、虎鉄。見てしまったわ」
猪里は瞬時に作り笑いをして、虎鉄に云い放った。
少女の頬はみるみる朱に染まり、ついには走ってこの場から去ってしまった。
少女の目尻に涙が浮かんでいたのを猪里は見逃さなかった。
「…今の子は?」
少女が走り去った方向をなんとなしに眺めながら猪里は聞いた。
「去年同じクラスだった奴Da。何かいきなり告られただけだから勘違いすんじゃねーZo!ちゃんと断ったSi」
別段慌てた風もなく云う虎鉄に、猪里は短く返事をした。
「…何だYo。怒ってんのKa?」
「別に」
「怒ってんじゃねーKa」
「怒ってなんかなか!何できさんの為に俺が怒らないかん?道理が合わんとやろうが」
表情をたたえずに猪里が云うと、流石に虎鉄もむっとしたように云い返した。
「キスしてたの見たからKa?あれはあっちが勝手にやって来たんだYo。逃げ場もねーし不可抗力だったんDa」
「云い訳かい?見苦しかね。よかよもう、んな面倒なことしよる前にあの子追い掛けてやらんでいいんね?」
「だから、違うって云ってんじゃねーKa!ちゃんと俺の話を聞けYo!」
虎鉄が大声を出すと、猪里の心がざわついた。
信じる信じない以前に、何か云い返さなくてはという心理が働いてしまう。
「何ね!一体何を聞けっちゅーんよ?あの子との出逢いの話でも聞いたればいいんかい!?」
きつい口調で云い返して、涙が出そうになった。
「俺を信じろYo!!」
「こげんとこ見せられて信じられる訳なかやろーが!」
「俺が好きなのはお前だけDaッ!」
「聞きたくなか!白々しい…ッ」
猪里は眉根をきつく寄せて、かぶりを振った。
いつにもなく、猪里は大分ひどいことを云っている。
だが本当に頭に来ていて、丁寧な言葉を選んでいる余裕がなかった。
「んなこと云って、いつもその言葉にあっさりだまされとう俺を影で笑っとったとやろ!?もうお前の言葉なんぞ信じん!」
そう猪里が云うと、虎鉄は悲しそうな表情をした。
それを見て猪里はひるむ。
「お前、そんなふうに思ってたのかYo」
虎鉄の目には軽蔑の色が込められているような気がして、猪里はここで初めて怖いと思った。
「…もう、何を云っても無駄みてーだNa」
虎鉄が猪里のほうへと歩み寄った。
猪里は咄嗟に身構える。
「……お前なんか顔も見たくNeー。そんな奴だとは思ってなかっTa」
吐き捨てるようにそう云うと、虎鉄はそのまま猪里の傍を通り過ぎ、鉄の扉を押し開けて中へ入っていってしまった。
「……」
猪里はしばらく呆然と立ち尽くしていた。








とりあえず5時間目はさぼることにした。
屋上の隅に座り込んで先程のことを思い返していたら、涙が止まらなくなってしまったのだ。
鳴咽も殺し、ただ静かに猪里は涙を流し続けていた。
自分達はこれで終わってしまうのだろうか。
自分が虎鉄を信じてやれなかったことと、丁度苛立っていたときで、タイミングが悪かったのだという理由で。
そう思ったら、涙はもう止まらないのではないかと思うほど流れ出た。
下らない理由だからこそ、余計辛かった。
「タケ?…おるか?」
聞き覚えのある声を聞いて、猪里は顔をあげた。
「…クロちゃん」
「…ひっどい顔して。可愛い顔が台なしやで」
「……」
苦笑しながら歩いてくる黒豹を不思議そうな顔で見つめながら、猪里は涙を拭った。
「梅星にな、虎鉄の様子がおかしくて、タケもどっか行ってしまってんけど理由を知らんかって聞かれてん。で、もしかしたらって来てみたら…」
自分では拭い切れなかった分の涙を、黒豹は優しく拭ってやった。
「…ありがと」
「何があったかは知らんけどなータケをこんなに泣かすなんて最悪やな、虎鉄の野郎」
黒豹が云って猪里の肩に手を置くと、猪里はびくりと震えた。
「そ、それは違くて…。俺が、いかんかって…」
「ん?」
黒豹から目をそらしてぼそぼそと云うと、黒豹はどういうことだと眉をひそめた。




「でもな、それ全部が全部タケだけのせいやないで」
「ばってんさ…」
たまに言葉に詰まりながら、ゆっくりと猪里は黒豹に先程あったことを説明した。
「今、改めて…冷静に、さっきのことば考えてみて、明らかに悪いんは俺やし…」
「やってしまったことをうだうだ考えても仕方ないやんか。自分が悪いと思ってんならさーさっさと自分から謝りに行きぃさ」
目を赤く泣きはらしてとつとつと云う猪里の頭を撫でながら、黒豹は云った。
「…顔も見たくなか、て…」
「虎鉄そんなこと云いよったん!?」
急に黒豹が大声を出すので、猪里は驚いて顔をあげた。
「有り得へんし!んなこと云われてもまだ自分が悪いとか云ってんのか」
両肩を掴まれて軽く揺さ振られても、猪里は大人しく成すがままである。
「あいつも絶対もとからキてたんやって。やなかったらそんなん云う筈ないやんか」
「そう…なんかな」
何だか少し救いの手を差しのべられたような気になって、猪里の表情がほんの少しだが明るくなった。
「きっとそうや」
黒豹が笑ってみせると、とたんにチャイムが鳴り響いた。
5時間目の終わりを告げるチャイムだ。
「…よっし」
それを聞いて、黒豹は立ち上がった。
「俺も行く…」
それを見て猪里も慌てて立ち上がる。
「阿保か。んな泣き晴らした顔で授業受けるつもりか」
「あ…」
「今日はもう帰れ。担任と牛尾サンには俺から何か云い訳しといたる」
な、と黒豹が云うと、猪里はしばらく考えた後に頷いた。
「鞄取って来たるわ。昇降口で待っとってよ」
「うん。ありがとうなー…クロちゃん」
猪里が微笑むと、黒豹はにっこりと笑って返した。












(結局あの後、家で独りでぼうっとしながらまた泣いて…)
部屋の布団の中で丸くなりながら、猪里は昨日と一昨日とのことをいろいろ考えていた。
たった2日でいろいろあったと思う。
目まぐるし過ぎて、ついて行けなくなって来た。
こんなことは漫画やドラマの中でしか起こらないものだと思っていたので、実際に起こってしまったことに驚いた。




昨日は、猪里が病室を出たしばらく後に牛尾も出て来て、もうしばらくしたら医師と看護婦がやってきた。
きっと牛尾が病室の中からナースコールで呼んだのだろうと猪里は思った。
しばらく待っていてくれと云われたので、猪里と牛尾は蛇神達のところへ戻ることにした。
「どうだった?」
「……」
羊谷の問い掛けに猪里が答えられないでいると、牛尾が猪里を案じて変わりに答えた。
「目を覚ましましたよ。でも何だか思わしくなくて…」
「どういうことだ?」
牛尾は少し答えることを躊躇い、猪里のほうをちらりと見た。
だが猪里は俯いているだけで、心ここにあらずといった風だった。
「何も…覚えてないらしくて。僕のことも、猪里くんのことも、…自分のことも」
「!記憶喪失ってやつか?」
「まだよくは…。今お医者様に診てもらっているところです」
「これはまた…」
面倒なことになった、と落ち込み切っている猪里の前では冗談でも云う訳にはいかず、そこで言葉を切って羊谷は頭をかいた。
「虎鉄くんのご家族の方は?」
「まだ来ねぇ。このままだと俺が詳しいこと聞くことになっかもな…」
「そうですか…」
そこで話題は途切れ、4人は各々今の状況や、これからのことなどを考えた。
が、その沈黙もあっという間に破られてしまう。
「……突っ立ってんのもどうかと思うぜ。座れ、2人供。特に猪里、お前は座ってしっかり休め」
「…ぁ…はい…」
云われて、猪里は蛇神の隣に腰掛けた。
それを見届けてから牛尾もその隣に座る。
「何か暖かい飲み物でも買ってきてやろう。自販機どこにあったかなー」
口調は軽いが、羊谷は意外と頼りになる大人だったのだな、と牛尾は思ってその背中を見送った。
「大変なことになってしまったね」
呟くように、牛尾は云った。
猪里と蛇神、両方に対して云ったつもりだったが、猪里は全く反応しなかった。
「だが、これからのほうがきっと大変也」
「…気をしっかり持たないとね」
云って牛尾は猪里を見た。
蛇神も、じっと猪里を見据える。
「今すぐ立ち直れとは云わん。だが、必ず立ち直らねば猪里も虎鉄も泥沼にはまっていくのみであろう。いくら時間がかかっても構わん。とにかく立ち直ることだ」
蛇神が、猪里の背中を撫でた。
猪里の小さな肩が震えていたのを、牛尾は見た。
「はい…」
猪里の頬を、涙が伝っていた。












(ばり格好悪か…。ここ数日で泣きすぎやん。しかもそれ見られすぎ…)
朝日が差し込んでいて、もう布団から出なければならないけれど、気力が沸かなかった。
昨夜はあのまま泣き疲れて眠ってしまったらしかった。その証拠にまだ制服を着ている。
鍵はどうしたのだろうとか考えたが、自分の鍵はいつも財布に入っているので、それを見つけたのだろうと容易に想像出来た。
(俺、また蛇神さんによっかかって寝てしまったんかいなね…。牛尾さん怒っとったらどげんしょー)
思考がどんどん脇道へ逸れて来たが、もうどうでもよかった。
(……やっぱ学校、行かなね)
のろのろと決心して、ようやく猪里は布団から這い出た。




















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