だからあんな些細なことで大喧嘩になって。 そのことで、こんな後悔することになるなんて。 「どうしたんだい?虎鉄くんと喧嘩でもした?」 「そんなとこです…」 猪里は前日虎鉄と大喧嘩したせいで気まずくなり、キャッチボールの相手を頼めなくなったので仕方なく、珍しく一人で手持ち無沙汰にしていた牛尾に声をかけてみたのだった。 そうしたらあっさり理由を見破られ、今に至る。 「虎鉄くんも君と考えてることは同じらしくてね。蛇神くんを取られてしまったよ」 ははは、と笑ってみせるのもむしろ猪里にはこわく見えた。 そして、牛尾が手持ち無沙汰にしていたのはそういう理由だったのか、と納得した。 「すみません…」 「ふふ、いいんだよ。たまには他の人とっていうのもいいものだと思うし」 そう云って牛尾が投げた球を上手くキャッチして、猪里はグラウンドにいる筈の虎鉄の姿を探した。 虎鉄は猪里達のすぐ近くで、蛇神とキャッチボールをしており、探すまでもなくあっさり見付かった。 だが、猪里が見ているのには全く気付いてないらしく、蛇神となにやら楽しそうに話している。 「…阿呆虎鉄」 ぼそりと呟いて、牛尾へと球を投げ返した。 「やれやれ…仕方のない子達だね」 そんな猪里の様子を見て、牛尾は微笑んだ。 そしてまた球を投げ返そうとしたまさにそのとき。 「!!危ないッ猪里くん!!」 「え…?」 そう叫んで牛尾が指差す方向を振り返って見ると、飛んできた球がすぐそこまで迫って来ていた。 「……ッ!!」 突然のことで反応し切れないでいると、目の前がいきなり真っ暗になった。 「な…んで…」 真っ暗になっかと思ったら次は何かが覆いかぶさり、その重みで猪里は尻餅をついてしまった。 その膝に、虎鉄が倒れ込む。 「虎鉄…!!お前何で…!!?」 猪里が虎鉄を揺さぶろうと肩を掴むと、その手を牛尾は掴んだ。 「頭を強く打ってるみたいだから動かさないほうがいい」 牛尾がたしなめるように云うと、猪里は虎鉄を動かさないように、頭を調べた。 「牛尾さん…っ!」 右のこめかみから出血しているのが見えて牛尾のほうを見ると、わかってる、と云って立ち上がった。 「蛇神くんは監督を呼んで来てくれないか。…あぁ、ちょうどいいところに。鹿目くんと三象くんは猪里くんと虎鉄くんの傍にいてあげて。僕は救急車を呼ぶ為に電話しに行くから」 牛尾がてきぱきと指示を出すと、蛇神は校舎へ、牛尾は部室へと走った。 「阿呆や…何で俺の代わりになんて…ッ!昨日あげんひどか喧嘩したやんか。俺ん顔ももー見たくなかやと云ってッ…」 猪里は首を垂れて虎鉄に話し掛けていた。 次第に部員達が集まり始めてざわざわし出したが、猪里には全く気にならなかった。 猪里にはただ、目の前で自分の為に血を流している虎鉄しか見えていなかった。 「傷はたいしたことないらしいよ。よかったね」 病院の廊下に設置してある椅子に腰掛けて、猪里は牛尾の報告を聞いていた。 牛尾を信用していない訳ではないが、無事だと聞いても実際に元気な姿を見るまでは安心出来なかった。 「そうですか…」 それでも少し気は抜けて、猪里は隣に座っていた蛇神に寄り掛かった。 「おう大丈夫か猪里。気ぃ抜けて今度はお前が倒れんじゃねぇだろうな」 云って羊谷が、蛇神がいるのとは反対の猪里の隣に座った。 猪里は薄く笑って、大丈夫です、と返事した。 牛尾が静かに猪里の前に立つ。 「虎鉄くんはまだ目を覚まさないけど…顔だけでも見に行くかい?」 「…はいっ」 落ち込んだ様子の猪里を見兼ねて、牛尾がそう声をかけると、猪里は顔をぱっとあげた。 「じゃ、行こうか。蛇神くんと監督は…どうしますか」 「我はここで待つ也」 「俺も虎鉄の親御さんを待たにゃならんからな。ここで若と待ってっから行ってこい」 「わかりました。じゃ行こうか、猪里くん」 「はい」 牛尾が歩く後ろを、猪里はしっかりとした足取りでついていった。 正直、顔を合わせるのが怖かった。 昨日の大喧嘩といい、今日のこの怪我といい、気まずくなる要素がありすぎるのだ。 だがそんな気持ちとは裏腹に病室へはあっという間についてしまう。 「ここだよ。1人で大丈夫かい?」 「えっと…」 「ん?」 「大丈夫じゃなかとです…」 弱気な感じでそう返事をすると、牛尾は優しく微笑んで猪里の肩に手を置いた。 「じゃ、僕も一緒に入ろう。邪魔になったらいつでも出ていくから、そのときは云うんだよ」 「邪魔になんか、なりません」 牛尾は、自分達が恋人同士と知っているからそんなことを云うのだろうかと猪里は考えたが、それを確認することは出来なかった。 猪里がごちゃごちゃと考えるのをよそに、牛尾はドアをあっさりと開けてしまっていた。 「失礼します」 「し…失礼しますっ」 牛尾よりワンテンポ遅れて病室に入ると、猪里は頭の中が真っ白になったような気がした。 病院のベットに横たわっているというだけでどうしてこう重病人のように見えてしまうのだろうと思った。 「虎鉄…」 名前を呼びながら、猪里は虎鉄のほうへと歩み寄った。 「虎鉄」 もう一回、今度はしっかりとその名を呼ぶ。 云って手を握ると、微かに握り返されたような気がして、虎鉄の顔に自分の顔を近づけた。 すると、少し開いた口から小さく声が漏れ、顔が少し動いた。 猪里はぱっと後ろの牛尾を振り返った。 「虎鉄、目覚ましそうです…っ」 「本当かい?」 それを聞いて、牛尾も虎鉄の傍までやって来た。 虎鉄が目を覚ましたら、まず一番に謝ろう。許してもらえなくても良いからとにかく謝り倒そう。 猪里はそう思いながら虎鉄の手をぎゅっと握った。 「ん…」 「虎鉄!」 「虎鉄くん」 虎鉄の目が薄く開かれ、2人とも顔を覗き込むようにじっと虎鉄を見つめた。 「……」 虎鉄はまだ虚ろな目で、猪里と牛尾の顔を交互に見つめ返していた。 しばらくして、虎鉄の口が何か云いたそうに動いたのを猪里は見逃さなかった。 「何?虎鉄」 すかさず、ぎゅっと手を握ってそう尋ねる。 「…お前…」 手を握り返すようなことはせず、虎鉄は猪里を見つめながら呟くように云った。 「…見ねぇ顔だNa。誰だったっKe?」 「……何、ふざけとう?笑えんよ?」 一瞬また頭が真っ白になったが、すぐに思考を取り戻して、つかえながら声を搾り出した。 部屋の空気が一気に下がったような気さえする。 「本気で云ってるのかい?虎鉄くん」 猪里が二の句を告げられずにいると、牛尾が声をかけた。 「…?本気だGa。つーかお前も初めTe…。ここもどこDa。病院…Ka?」 虎鉄はゆっくり体を起こすと、辺りを見渡した。 猪里は目の前で起こっていることが信じられず、ただ呆然と立ち尽くしていた。 牛尾も驚いてはいたが、なんとかまだ平常心を保っていられるらしく、猪里のように立ち尽くすことはなかった。 「俺は…虎鉄っていうのKa?」 そんな様子に気付いていない虎鉄は、牛尾にそう聞いた。 「うん…そうだよ。君の名前は虎鉄大河。本当に覚えてないのかい?」 「……」 云われて、虎鉄は目を伏せた。 真剣に考えているようだったが、どうにもわからないらしく右のこめかみをおさえた。 「そこ、どうして怪我しているのかもわからない?」 「…わかんねぇ」 これは嘘でも夢でもないのだ、と思ったら、この病室にいるのが辛くなってきた。 ほとんどよろめくように、猪里は1歩後退りする。 「大丈夫かい猪里くん」 「俺…外にいます…」 虎鉄のほうも牛尾のほうも見ずに、猪里はそう云うとゆっくり病室を出た。 「猪里くん…」 その後ろ姿が痛々しく、牛尾は猪里の名を呟いた。 「どーしてこげんことになりよったんよ…?」 病室のドアに背を預け、猪里はずるずるとへたりこんだ。 「虎鉄は何も悪かことばしとらんやん…!!」 猪里は両手で自分の体を掴んだ。 しっかり気を持たないと、力が抜けてもう二度と立ち上がれないような気さえした。 「…俺のせいや」 身が裂かれるほど辛いと思ったのに、不思議と少しも涙が出ないことが余計に辛く思えた。 NEXT |